2014年11月13日星期四

〈清代再思〉一文在中國大陸被刪掉的章節:清朝歷史與中國民族主義 (一)



清朝歷史與中國民族主義
羅友枝 

羅友枝,〈清代再思:清代在中國歷史上的重要性〉Evelyn S. Rawski, ”Reenvisioning the Qing: The Significance of the Qing Period in Chinese History,” JAS 55 No. 4 (November, 1996):829-850 一文的譯文原刊於劉鳳雲、劉文鵬編,〈再觀清代:清代在中國歷史上的重要性〉,《清朝的國家認同:新清史研究與鳴》(北京:中國人民出版社,2010),頁1─18,但其中的 Qing History and Chinese Nationalism一節因故並未譯出。現由中正大學歷史所碩士生王婷補譯,再由本人校定。甘德星附記。
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P.838
     清朝的歷史,與族群民族主義(ethnic nationalism)以及建立多民族國家(multiethnic nation state)間持續緊張關係,息息相關。1911年的革命推翻清朝不久,孫逸仙及其他提倡國族主義的領袖,沒有採取一個原可讓中國民族國家(Chinese nation-state)與人口佔多數的漢民族(Han Chinese people)緊貼的定義。1912年共和國的臨時約法特別認定蒙古、西藏、青海是國家不可缺少的組成部分,即便這些領土是新近納入滿洲人所建立的帝國的。[4]孫逸仙有關民族的討論是以兩百年前乾隆皇帝所識別出的「五族」為依歸,許多居住於中國南邊與西南區域的少數民族被遺留在外。這突顯出在地緣政治上,他對蒙古人、穆斯林、西藏人企圖建立自己自治國家的關

P.839
    從一開始,這個新興的共和國便著力處理一個根本的矛盾:在提倡大漢民族主義(Han nationalism)的同時,也冀望能在這個新建的民族國家內保有清朝所有的領土。「漢」人在今天包括了中華人民共和國百分之九十二的人口,但「漢人」身分的創造卻可追溯至十九世紀晚期到二十世紀初。根據一些學者的研究,漢文文獻中所見最早的自我認同,將「華」與「夏」視作為文明民族,以與野蠻人作對比。「漢」這個詞出現於一個以社會達爾文主義和中國民族主義為框架討論的脈絡裡。這時的學者如梁啟超,在回應歐洲人對種族的想法時,聲稱黃種人是被漢民族所支配的,而他們「是文明的創始者,他們教化了整個亞洲。」「漢」這個詞,正如孫逸仙所陳述的,指的是一個種族(race)。

    雖然中國前後的幾部憲法將中國界定為一個多民族政治共同體(multiethnic political community),但中國的領袖從孫逸仙到毛澤東仍一貫辯稱這個國家由漢人主導是正確的。梁啟超曾警告說,若僅以漢文化來界定這個新國家,其政治後果將是清帝國的解體。梁啟超設法保住清帝國的邊地。雖然他主張創造「大民族主義」以便將滿洲人、蒙古人、維吾爾人、西藏人納入國家之內,但在其著作中,他也提出了民族同化的可能性。畢竟,梁啟超注意到滿洲人與漢人(Chinese)基本上已難以分別。因此,西方認定作為民族國家基礎的共同住居、共同血統、語言、宗教、習俗、生活方式,早已部份完成。

    孫逸仙也偶爾提及有必要超越現有的族群認同去創造新「國民」(中華民族)。在1923年的孫越宣言和1924年國民黨第一次全國代表大會中草擬的建國大綱中,孫逸仙會聲明少數民族有權決定他們自身的政治前途,但他也建議組織合作社去推動漢人遷移至少數民族地區。為了合理化這個同化政策,他視之為相對於歷史上漢化進程的當代漢化。蔣介石延續了這個看法,他辯稱由於居住於邊區的少數民族早已是中華民族(Chinese race)的一部分,他們不會有不同的身分。

   二十世紀的同化理論,與早前知識份子嘗試將漢人被征服的經驗結合到儒家的架來理解相近。儒家提出的文化普遍主義,是以文化──而非以種族──界定中國人的身分(Chinese identity),並且極力將其他民族納入其內。[5]這個觀點在十二世紀北宋和女真金朝對峙時,被當時一些學者嚴重質疑。他們提出「一個劃定的漢族群體和國 的概念,而野蠻人不在其中」。杜贊奇(Prasenjit Duara)辨說這些北宋儒者的觀點是一種前現代民族主義意識。即便有人接受他的論點,但像方孝儒和王夫之這樣著書立說的人,直至十九世紀晚期,仍然屬於明顯少數。中國西南的非漢民族透過教育而漢化引起過爭辯,這說明儒家的教化理想在整個清代依然存在。

P. 840
(代續)……



(中正大學滿洲研究班王婷)


[4]新疆和東北地區列舉出來因為這些地方在行政上已為省。
[5]最近,若干學者已注意到中國對少數民族的態度含有強烈的「東方主義Orientalist)色彩:見羅威廉(William Rowe1994米華健(Millward1994

2014年11月5日星期三

《 清帝國性質的再商榷:回應新清史》 第二版


國立中央大學歷史所講座教授汪榮祖主編的 清帝國性質的再商榷:回應新清史一書,代表海峽兩岸學者對「新清史」學說的最新回應。




該書於2014年9月6日出版以來,讀者反應熱烈,未及二月,全部500 冊即銷售一空。現再加印500冊,以應海內外讀者的需求。


延伸閱讀:
1.《 清帝國性質的再商榷:回應新清史》
2. 清帝國性質的再商榷:回應新清史 ── 導論
3. 新清史理論之盲點:大清即中國

2014年11月4日星期二

《滿蒙漢詞典》







•編 者: 敖拉·畢力格, 烏蘭托亞
•出版社: 民族出版社; 2013年7月第1版
•精 裝: 1264頁
•開 本: 16
•條碼: 9787105124473
•定 價: 198.00



內容提要:
本書利用1957年民族出版社出版的《五體清文鑑》,去掉了維文、藏文後,在原來的滿、蒙、漢文基礎上,編入新的滿蒙漢文內容。


2014年11月1日星期六

《新滿漢大詞典》電子版、 新版及其他






《新滿漢大詞典》即將再版
胡增益主編的《新滿漢大詞典》於1994年由新疆人民出版社出版,全書共收詞34,000餘條,280多萬字,是目前收詞最多的一部滿漢大詞典,可與遼寧民族出版社於1993年出版的《滿漢大詞典》互補不足。新版的《新滿漢大詞典》,預計2014年底前再版。

另外,經4年努力,《新滿漢大詞典》已完成電子化工作, 整理後的資料將提交ANAKV網站,供線上查閱。
 

電子版工作志工在校對中

作者簡介
胡增益,男,漢族,1934年生,天津市人。1952年考入北京大學學習語言學,畢業後到中國科學院語言研究所工作。1956年轉中國科學院少數民族語言研究所。歷任中國社會科學院民族研究所研究員、北京滿學會副會長。主要研究領域為滿一通古斯語族語言和文化。著有《鄂倫春語簡志》、《鄂溫克語簡志》,主編《新滿漢大詞典》(獲第二屆國家圖書獎提名獎等多個獎項),合著有《二十世紀的中國少數民族語言研究》等。

其他

《滿漢大詞典》(安雙成主編)亦即將再版。
《滿蒙漢大詞典》、《滿俄漢大辭典》已經結項,出版正在聯繫中。



(中正大學滿洲研究班甘德星)

2014年10月22日星期三

鄂溫克博物館的假文物:「康熙詔書」



又訪海拉爾
為了賡續放下多年的蒙古研究,今年8月底,我乘機直飛海拉爾,目的地是海拉爾西面的額爾古納地區。現在的海拉爾,與我在90年代末第一次到訪時已分別甚大。當時在感覺上還是偏僻荒蕪、舟車難至的邊城,現在已變得十分熱鬧興旺了。


和平廣場附近的建築物


鄂溫克博物館
回台前,我順道參觀了在該處的鄂溫克博物館。 前矗立著鄂溫克民族英雄海蘭察的銅像。館內的展品包括鄂溫克民族歷史、當代鄂溫克民族風貌、當地動植物標本三大部分。




「康熙詔書」
館內有一件文物據說是徵集自呼倫貝爾地區的康熙「詔書」。這「詔書」應是所謂的「誥命」,但不用細看也知道這不是什麼清代文物。





                            「康熙詔書」為什麼是假的?
首先,「詔書」上的「制誥之寶」璽印與我們已知的幾種「制誥之寶」的樣式不同,璽印明顯是描摹原印文得來的。「詔書」上鈐記的日期並非在印文的中央,這與清制明顯不符,而且康熙61年駕崩,「詔書」將年份寫作康熙65年更是天大的錯誤。



再看「詔書」的漢文部分,文字顯然是胡亂抄錄自其他「誥命」內的文句,並隨便湊合,文理根本不通,而原應是滿文的部分,更沒有一個字是滿文的,與鬼劃符其實差不了多少。




在離開博物館前,我已通知了館方人員將此假文物撤下。邊城海拉爾,經過多年的努力,面貌一新,但在文化建設方面,似仍有待加強。




(中正大學滿洲研究班甘德星)


2014年10月7日星期二

法蒙字典


Jacques Legrand
Dictionnaire français-mongol




Book Format: 17x24
Number of pages: 904
First Edition: 2014
ISBN: 978-2-36057-048-5
Price: 45,00 €

Les auteurs de ce dictionnaire ont eu pour objectif de proposer aux utilisateurs français et mongols un outil commode et fiable de compréhension et d'expression, présentant la langue mongole d'aujourd'hui dans tout ce qu'elle comporte de renouvellement et d'innovation. Y figurent environ 20 000 entrées principales, et près du double si l'on prend en compte les multiples polysémies des mots.

Né dans le prolongement du Dictionnaire mongol-français de Ts. Sükhbaatar et J. Legrand (publié à l'Asiathèque et entièrement renouvelé en 2011), le présent dictionnaire est d'une toute autre ampleur et vise à répondre aux besoins des acteurs des multiples domaines de la coopération franco-mongole, notamment en ce qui concerne la médecine et les sciences.

Les mots mongols sont donnés dans les deux écritures, cyrillique et uigur, sans transcription. Leur identification sémantique est facilitée soit par l'indication des domaines auxquels ils sont associés, soit par des équivalents qui en clarifient l'usage (caractères maigres), soit par des synonymes (caractères gras).

Jacques Legrand est professeur de langue et littérature mongoles à l'Inalco. Il en a été le président de mars 2005 à mars 2013. Jadwiga Karkucinska-Legrand est mongolisante. Elle a été maître-assistant à l'université de Varsovie.


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The authors have designed this dictionary with the intention to offer French and Mongol users a convenient and reliable tool to understand and to express oneself, presenting the Mongol language of today in all that it has of renewal and innovation. With approximately 20,000 main entries and nearly the double if one takes into account the multiple words in polysemy.

Elaborated as the extension of the Mongolian-French Dictionary from Tsegmidijn Sükhbaatar and Jacques Legrand (published at L’Asiathèque and completely renewed in 2011), this dictionary is at a different scale and aims to meet the needs of multiple fields of Franco-Mongol relations, such as medicine and science.

Words in Mongol are given in both Cyrillic and Uigur without transcription. Semantic identification is facilitated either with the indication of the field to which the word is associated, either with an equivalent to clarify the use (regular font), or with synonyms (bold font).

Jacques Legrand is a professor of Mongol language and literature at INALCO. He was president from March 2005 to March 2013 of this Institution. Jadwiga Karkucinska-Legrand is a fluent Mongol language user. She was a lecturer at the University of Warsaw.


2014年10月2日星期四

河内良弘: 《滿洲語辞典》




1983年,我在日本京都大學進修,選修了河內良老師的滿文課。有一次下課後,和河內老師聊天,他便談到要編一本滿洲文辭典。(註1)1999年,河內老師退休後,將他3年前出版的《滿洲語文語文典》寄了給我,我以為他不會餘力去完成字典的心願了。天曉得三十年後,河內老師居然花了近二十年的時間,獨力完成了這一艱辛的任務,我不得不佩服河內老師的毅力和意志力。《滿洲語辞典是河內老師繼《滿洲語文語文典》後又一力作,是他研究滿文一輩子的結晶。

下面是中、日文有關河內老師《滿洲語辞典》版的報導和訪談錄影。

註1河內老師說編辭典的念頭始自1980年代末應是誤記。見Muse  (Teikoku Databank Historical Museum), vol. 2 (2014.3), p. 3  .

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河内良弘 編著/本田道夫 技術協力
出版社:松香堂書店
出版年:2014年06月
コード:1242p  ISBN/ISSN 9784879746801
価格 32,400円

1937年刊行の『満和辞典』(京都帝国大学満蒙調査会発行)以来、77年ぶりとなる満洲語の辞典。故宮博物院(北京)所蔵史料を中心に、著者が20年の歳月をかけて20余種の文献から集めた語彙約4万語を収録する。本文は横書き。見出し語はメーレンドルフ(P.G.von Mollendorff)の音訳法に従ってローマ字化し、アルファベット順に配列。見出し語のローマ字、満州文字、品詞、番号、日本語訳、見出し語漢訳、出典、(あれば)用例、用例の出典の順で記す。





カルチャーインサイド:絶滅寸前、満州語辞典作りたい!京大名誉教授・河内良弘さん、コツコツ5万語収録も出版未定

毎日新聞 2013年11月29日 大阪朝刊


 中国最後の帝国「清」を建国した満州族(女真(じょしん)族)の公用語だった満州語は今、絶滅の危機にある。そんな中、『満州語辞典』(満和辞典)の編集に情熱を傾ける学者がいる。奈良市在住の京都大名誉教授、河内(かわち)良弘さん(85)。大学在任中から史料(資料)収集に着手し、北京の古文書館などに私費で足を運んできた。硬い岩盤にノミ1本で立ち向かうような作業をコツコツと続けること二十余年。収録数約5万語、約1200ページにのぼる辞典のゲラ校正が今年中に完了する予定という。出版先が見つかっていないのが気がかりだ。【有本忠浩】

 河内さんは、清の前に栄えた「明(みん)」時代の女真史の専門家。「清の太祖ヌルハチをはじめとする満州族は、明との貿易で力を蓄え建国の源にした」

 京大・東洋史学講座では東洋史学の泰斗、故宮崎市定教授らの指導を受けた。大学院時代には、蒙古(もうこ)など北アジア史を専門にする故田村実造教授らの「明代満蒙史料」編集も手伝った。

 「明時代の文献を読むうち、当時の満州族の居住地帯には集落が点在するだけで大都市がないと気付いた。何もない所からなぜ国家が生まれたのか」。興味は広がり、やがて、満州族や満州語を調べるようになった。

 天理大教授時代。同大学長から「満州語を米国の大学で教えてほしい」と請われた。1978年から米・インディアナ大に赴任したが、当時は米国人向けの文法書などは皆無だった。

 唯一、日本にあったのが、37(昭和12)年に編集された『満和辞典』(「京都帝国大学満蒙調査会」発行)。同年には日中戦争が開戦。当時の新聞をはじめ日本中が、満州をユートピア、「王道楽土」と呼んだ。河内さんは「私の周囲も満州熱に感化され渡った人は少なくなかった。辞典は時代環境を色濃く反映して生まれた」。河内さんはこの辞典を基に、文法、用例などを英文にしてテキストにした。

 帰国し、京大教授に就いて以降も事情は一緒。研究者らのよりどころは戦前の『満和辞典』だけだった。「語学研究者の『三種の神器』、文法書、読本、辞典の何一つないことに研究者として暗たんとした」。当の中国でも事情に大差はない、という。

 満州族は2010年の国勢調査で約1000万人。河内さんらによれば、中国国内で暮らす55の少数民族のうち、チワン族に次いで多い。しかし、1911年の辛亥革命で清朝が崩壊した後、満州族は排斥され、49年の新「中国」建国後も自治区や自治州が認められなかった。満州語を母語にする人は高齢化が進み、満州語は衰退の一途をたどっている。

   中国最後の帝国「清」を建国した満州族(女真(じょしん)族)の公用語だった満州語は今、絶滅の危機にある。そんな中、『満州語辞典』(満和辞典)の編集に情熱を傾ける学者がいる。奈良市在住の京都大名誉教授、河内(かわち)良弘さん(85)。大学在任中から史料(資料)収集に着手し、北京の古文書館などに私費で足を運んできた。硬い岩盤にノミ1本で立ち向かうような作業をコツコツと続けること二十余年。収録数約5万語、約1200ページにのぼる辞典のゲラ校正が今年中に完了する予定という。出版先が見つかっていないのが気がかりだ。【有本忠浩】

 河内さんは、清の前に栄えた「明(みん)」時代の女真史の専門家。「清の太祖ヌルハチをはじめとする満州族は、明との貿易で力を蓄え建国の源にした」

 京大・東洋史学講座では東洋史学の泰斗、故宮崎市定教授らの指導を受けた。大学院時代には、蒙古(もうこ)など北アジア史を専門にする故田村実造教授らの「明代満蒙史料」編集も手伝った。

 「明時代の文献を読むうち、当時の満州族の居住地帯には集落が点在するだけで大都市がないと気付いた。何もない所からなぜ国家が生まれたのか」。興味は広がり、やがて、満州族や満州語を調べるようになった。

 天理大教授時代。同大学長から「満州語を米国の大学で教えてほしい」と請われた。1978年から米・インディアナ大に赴任したが、当時は米国人向けの文法書などは皆無だった。

 唯一、日本にあったのが、37(昭和12)年に編集された『満和辞典』(「京都帝国大学満蒙調査会」発行)。同年には日中戦争が開戦。当時の新聞をはじめ日本中が、満州をユートピア、「王道楽土」と呼んだ。河内さんは「私の周囲も満州熱に感化され渡った人は少なくなかった。辞典は時代環境を色濃く反映して生まれた」。河内さんはこの辞典を基に、文法、用例などを英文にしてテキストにした。

 帰国し、京大教授に就いて以降も事情は一緒。研究者らのよりどころは戦前の『満和辞典』だけだった。「語学研究者の『三種の神器』、文法書、読本、辞典の何一つないことに研究者として暗たんとした」。当の中国でも事情に大差はない、という。

 満州族は2010年の国勢調査で約1000万人。河内さんらによれば、中国国内で暮らす55の少数民族のうち、チワン族に次いで多い。しかし、1911年の辛亥革命で清朝が崩壊した後、満州族は排斥され、49年の新「中国」建国後も自治区や自治州が認められなかった。満州語を母語にする人は高齢化が進み、満州語は衰退の一途をたどっている。

 河内さんによると、満州語は、母音が六つで、モンゴル語などと同じアルタイ語系言語。文字はモンゴル文字を改良し、文法は日本語に似ているという。

 京大退官後には、文法書や読本を兼ねた『満州語文語文典』(96年)『満州語文語入門』(共著、02年)などを刊行。残るは大事業の辞典の完成で京大教授時代の終わりごろから志してきた。

 在任中は夏休みを利用して、北京の古文書を所蔵する「中国第一歴史档案館(とうあんかん)」などに毎年通った。文部科学省に研究費を申請しても「緊急性がない」などの理由で認められなかった。一時期、トヨタ財団の厚意にはあずかったが大概は持ち出し。

 北京通いも最初は門前払い。「ここには清朝の政治、経済、外交、生活史などの根本史料(資料)がある。外国人に容易に見せたり、コピーさせたりするはずもない。私は『地獄の門番』と呼んでいました。数年かけて門戸を開いてもらい、次は職員と親しくなり、やがて館長と通じるようになって初めて思いを理解してもらえた」と振り返る。

 データ入力や満州語の字母作りなど技術面では、辞典作りを意気に感じた香川大学経済学部教授、本田道夫さんの助力を得た。河内さん自身、自宅2階の書斎でゲラと格闘しながら、これまでにワープロ、パソコン6台をつぶしてきた。

 傍らで見守ってきた妻伊都子(いつこ)さん(81)は「私の父も哲学者だったので、人には言い得ない学者の孤独を少しは分かっているつもりです」。河内さんは「体調管理に気を払ってくれる妻と協力してくれた本田君には感謝しきれない」と話した。

 今年中にゲラの最終校正(7回目)を完了し、出版社などへ話を持ち込みたいと言う。


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■人物略歴
◇かわち・よしひろ
 1928(昭和3)年、佐賀県生まれ。京都大文学部大学院博士課程修了。専攻は東洋史。米・ワシントン大極東研究所に留学。天理大教授などを経て85〜92年、京都大教授。主著に『中国第一歴史档案館蔵 内国史院満文档案訳注 崇徳二・三年分』(松香堂書店、2010年)。









日教授自費出版滿語詞典 曾花20年時間蒐集資料

中國新文網 2013年12月06日

日本《朝日新聞》12月6日報道,日本京都大學名譽教授河內良弘(85歲)將在明年初拿出1000萬日元(約合人民幣60萬元)自費出版一部滿語詞典。這部詞典將印刷500部,收錄的滿語詞條達4萬條,創下日本國內滿語詞典的最高紀錄。

  河內教授是東洋史專家,主要研究滿族的祖先女真。1960年代末,河內在美國的大學學習蒙古語。這是研究女真歷史的重要工具。回到日本後,京都大學的指導教授向他下達了一個意想不到的命令,“你去學習滿語吧”。

  要學習一門外語,詞典、語法書、教材讀本是必不可少的。但是當時的滿語語法書極其有限,詞典也只有二戰前出版的舊書。無奈之下,河內只能自學滿漢文對譯的讀本。不久之後,日本和美國的大學相繼邀請他去授課。

  河內站在講壇上,更切身體會到滿語領域的專家嚴重不足。後來他得到了清朝皇族後代的協助,1996年出版了滿語的語法書和讀本。為了給本次出版的詞典蒐集詞彙,河內教授花了約20年時間,在北京故宮博物院查閱滿語文獻,抄錄了數百頁的筆記。他還從台灣借閱了諸多史料。

  新詞典從21部文獻中收集了4萬個詞條,遠遠超過至今為止收錄詞條最多的滿語詞典(約2萬條)。在完成滿語詞典的編撰後,河內教授將恢復東洋史學家的老本行。

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河內良弘先生,1928年8月於日本九州佐賀縣武雄市出生。1945年佐賀縣唐津初中畢業。1949年佐賀高中舊制文科甲類畢業。1950年任千葉縣成田町立成田初中教師。1951年插班人京都大學文學院二年級,跟隨宮崎市定、佐伯富、佐藤長三教授學習東方歷史。1954年3月京都大學畢業後,又進入京都大學研究生院文學研究部學習。在研究生時代,專心致力于《明代滿蒙史料明實錄抄》的編纂和明代女真史的研究。當時的同學有竺沙雅章、小野和子、勝藤猛等人。1956年開始任天理大學親里研究所助手,同時于1959年3月完成了京都大學研究生院的博士課程。

1960年任天理大學講師,負責外國史、中國史的教學。1968年,任副教授。1973年任教授。其間於1967年至1968年間,入美國華盛頓大學西雅圖大學研究院,在該院的遠東研究所從事蒙古語研究和《金史》的編纂。1978年至1979年,獲美國印地安納大學烏拉爾·阿爾泰學院的邀請,再次赴美,專責滿語教學。1984年以《明代女真史研究》一書獲得京都大學文學博士學位。1985年從天理大學轉任京都大學文學院,任文學院史學部第二講座,教授女真史和滿洲語。1992年《明代女真史研究》由同朋舍出版社出版。1992年退休,重任天理大學文學院歷史文化學科教授,教授史學概論、史學方法、東方史通論,同時負責東方史實習課。1997年獲聘為京都大學名譽教授。1999年,從天理大學退休,並同時獲聘為天理大學名譽教授。

近年,河內良弘先生獲任為京都大學東南亞研究中心協議員會協議員兼史學研究會理事長等要職,同時受聘于東京外國語大學亞非語言文化研究所和國立民族學博物館,任共同研究員。同時還兼任京都大學、奈良女子大學、大阪大學、天理大學、大阪外國語大學、富山大學、崗山大學的特邀講師。



視頻: 搶救滿語的85歲日本老人(日本龍之升中文台):
http://www.tudou.com/programs/view/Owdzjf-7hSk/
http://v.youku.com/v_show/id_XNzAxMjkxMzMy.html



(中正大學滿洲研究班甘德星)

2014年9月27日星期六

帝國建築:北京、承德二地記遊 (二)


承德

(一)避暑山莊
不知塞了多久的車,終於來到承德。依據當地導遊的說法,只要車在動就不算塞車,這可讓我們這批台灣學子大嘆吃不消啊。

避暑山莊門匾(謝清熙攝影)


避暑山莊入口門匾(謝清熙攝影)

避暑山莊入口,門匾上的文字自左至右分別是蒙文、回文、漢文、藏文、滿文,象徵大清帝國的遼闊與強大。此處滿文的書寫和故宮不同,採用意譯的方式。門匾上的滿文拼寫為genggiyen tob duqa,由此可知麗正門的「麗」是光明的意思,duqa就是「門」的意思.不過,北京故宮「門」字卻拼寫成men,同樣是滿清皇帝生活起居的地方,卻有音譯與意譯兩種翻譯法,這倒是很有趣的地方。

 避暑山莊在清代具有特殊的重要地位,興建的目的出於攏絡塞外民族以鞏固政權。在康熙、乾隆時期,滿洲皇帝每年大約有半年住在此。因此,避暑山莊可說是北京以外,清代第二個政治中心。


避暑山莊無論是建築形式或室內陳設,和紫禁城相比,相對素雅許多,不過遊客依舊不少。(謝清熙攝影)


煙雨樓,為電視劇《還珠格格I》中的漱芳齋(謝清熙攝影)

電視劇《還珠格格I》五阿哥和小燕子打鬥的場景。傳說在拍攝打鬥場面時,不慎踩破一塊瓦,於是園方就不准許劇組在避暑山莊拍攝電視劇《還珠格格II》了(謝清熙攝影)




(二)普陀宗乘之廟

碑文左起為滿文、漢文、蒙文、藏文(謝清熙攝影)


普陀宗乘之廟是乾隆三十六年(1771),乾隆帝為了慶祝他本人60壽辰和他母親皇太后80壽辰而建的。此仿照西藏布達拉宮而建,因而又稱為「小布達拉宮」,是外八廟中最輝煌、規模最大的一個廟。

 從山門進去後,眼前所見的第一個建築就是乾隆御碑亭。御碑亭內豎著三座碑石,以漢、滿、蒙、藏四種文字刻著《普陀宗乘之廟碑記》、《土爾扈特全部歸順記》、《優恤土爾扈特部眾記》。

乾隆御碑亭外觀(謝清熙攝影)


御碑亭內以漢、滿、蒙、藏文書寫的石碑(謝清熙攝影)


五塔門外牆的「盲窗」全用磚塊封死,據說是為了避免喇嘛修行時不專心。(謝清熙攝影)

       

盲窗特寫(謝清熙攝影)

大部分的北京研習營都只待在北京,難得看到有把路線拉到承德的。承蒙天佑,讓我有機會參加這次的行程。由於參訪結束到我寫這篇遊記也相隔近一年,許多細節不太有把握能完整呈現,若有錯漏,尚請海涵。



(中正大學滿洲研究班謝清熙)

2014年9月18日星期四

賓禮到禮賓:外使覲見與晚清涉外體制的變化





· 賓禮到禮賓:外使覲見與晚清涉外體制的變化
· 叢書名:東方歷史學術文庫
· 作者:尤淑君 著
· 出版時間:2013年11月
· ISBN:9787509751305
· 價 格:¥78.40

本書聚焦于“外國公使覲見禮”,分析清代賓禮體制的原型、變體及其思想體系,進而探天下秩序”與中國近代政治文化的關聯。通過考察“外國公使覲見禮”的制訂過程,可知從“賓禮”到“禮賓”的改變並非一蹴而成。清政府面對外來刺激時,自有其內部轉換的機制,不只有外在形式上的變革,更有內在觀念的調整,故清政府提出“客禮”概念,作為中禮與西禮的過渡禮儀,也是“天下秩序”與“國際法”的思想銜接。但當“客禮”無法再解釋公使請覲時,“賓禮體制”宣告結束,“天下秩序”也不再是清政府對外關係的中心思想。



目錄
緒 論/1

第一章 清代前期的賓禮體制/24
  一 清代賓禮的運作/28
        二 清代賓禮的特殊性/56
  三 清初款接俄使之異/77
第二章 賓禮體制的延續/101
  一 公使駐京之款的交涉/103
        二 英、美兩國在換約問題上的不同看法/117
  三 親遞國書條款的爭執/133
  四 涉外體制的變與不變/145

第三章 客禮概念的應用/170
  一 總署對“敵體”的建構/17
  二 中國使節團對西禮的嘗試/19
  三 優禮外人:三揖禮和五鞠躬禮的制訂/215

第四章 客禮概念的再應用/244
  一 比較《申報》對外使覲見的看法/24
  二 中外往來的儀節問題/268
  三 覲見地點的隱喻:從紫光閣到文華殿/289
  四 客禮概念的極限/307

第五章 賓禮的變與不變/325
  一 客禮概念下的覲見禮更定/326
  二 醇親王使德的覲見禮問題/344
  三 客禮的再轉換:禮賓概念的形成/361

結 論/392
徵引書目/405
索 引/460
稿 約/471
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緒  論

一 研究動機
先秦儒家的王道思想,主張周天子位居“天下”的中心,四裔諸侯皆為周天子的臣屬,用以屏障周王室。漢代獨尊儒術後,儒家學說成為中國的主流學術,而“天下秩序”、“華夷之辨”、“君臣之分”等概念,也成為傳統政治文化的核心意識。美國學者費正清(John K.Fairbank,1907~1991)提出“中華世界秩序”的論點後,大大影響了國際學界的研究動向,相關論述甚多,但這些研究成果都針對中華世界秩序的“現象”進行討論。1990年代以後,針對中華世界秩序“原理”的研究成果,逐漸取代這些只討論“現象”的先行研究,讓“中華世界秩序”的研究又進入一個新的階段。如張啟雄教授首先提出規範“中華世界帝國”的“中華世界秩序原理”,並將儒家倫理觀分為多項概念,說明天下就是中華世界帝國,天子就是中華世界帝國皇帝。中國全土是為王畿,即為“華”,皇帝直接管轄臣民;中國以外的周邊諸國為屏藩,即為“夷”,皇帝可通過屬國國王,間接管轄屬國臣民。當有外來者要求與中國往來時,中國政府安排冊封、上表、納貢、賞賜等儀式,確認皇帝與外來者的君臣身份,彰顯雙方的尊卑位階,並將這些外來者定位為藩屬,納入中國與周邊國家共構的“中華世界秩序”。據此,中國與周邊諸國的往來,多以“禮”為媒介,而這些禮儀儀式都帶有政治文化的隱喻,從這些儀式的安排,可觀察往來雙方的政治從屬、經濟交換及文化交流等種種面相。

“賓禮”即款接賓客的相關禮儀。根據主客身份的不同,“賓禮”又分為兩大類型:一是君臣之間的“朝貢禮”,強調不對等位階;二是臣屬之間的“聘禮”,強調對等位階。而中國款接外來者的禮儀儀式,皆歸入“賓禮”的範疇,並依據外來者的身份,安排相應的款接儀式,彰顯往來雙方的政治關係。由此可知,若要探討清代的對外關係,不能套用歐洲諸國的主權觀念(Sovereignty),必須分析“賓禮”的儀禮次序,方能理解清帝國與周邊諸國的往來方式。

自簽訂《江寧條約》、《天津條約》後,清政府因戰敗,不得不同意平行往來、公使駐京、親遞國書等款,無法再將英、法、美、俄四國視為“夷”,也無法再以“朝貢禮”規範這些國家的交涉儀節。為了維護“天下秩序”的正當性,清政府必須另闢蹊徑,將這些國家納入“賓禮體制”的規範,並借由不同的款接儀節,重新“正名”這些外來者,建構中國皇帝、各國君長、外國駐京公使的等差位階。尤其是禮制本身,便可衍生多種層次的權力關係,如行禮方式、服裝穿著、公文用詞、座位安排、入門登階的位置,皆顯示權力關係的變化。因此,外國公使如何覲見皇帝的禮儀問題,便成為中外雙方爭執的焦點之一。

對清政府來說,“外國公使覲見禮”問題實涉及整個政權的正當性基礎。從咸豐朝、同治朝、光緒朝的交涉過程,可知清政府為了“外國公使覲見禮”的問題,做了各種的努力,儘量將外國公使定位為皇帝的臣屬。即使八國聯軍佔領北京,甚至強迫清政府簽訂《辛醜和約》,光緒君臣仍汲汲于“外國公使覲見禮”問題,不願輕言放棄皇帝的至尊地位,也不願徹底拋棄“賓禮體制”。清政府對“外國公使覲見禮”的堅持,或可解釋為清朝君臣對“天下秩序”崩解、“以夷變華”的焦慮感,同時也是他們解決正當性危機的自強之道。

過去學界受到現代化理論的影響,多以為清代的對外關係封閉守舊,並批評清政府執著無謂的覲見儀式,無視國際法的外交慣例,遂引起中外雙方的覲禮之爭,使中國自絕於國際社會。在外交史的研究框架之中,這樣的論述或有道理,但不免有過度簡化之虞,未曾深究下列問題:第一,“賓禮”的內涵是什麼?第二,“賓禮體制”是否等於朝貢貿易?與清代涉外體制有何關聯?第三,為何清政府執著于“外國公使覲見禮”的儀式?第四,當外國公使堅持行“鞠躬禮”時,清政府如何變通擬訂“外國公使覲見禮”方案?又如何解釋覲禮更定的現況,讓中國官民和外國公使都能接受這樣的改變?第五,“賓禮”如何落實到中外雙方的地方交涉?又如何制定中外往來的儀節,規範外國領事、洋商及傳教士的行動?第六,“外國公使覲見禮”的更定,將如何影響清帝國的涉外體制、權力分配及“天下秩序”的理念?第七,“賓禮體制”如何過渡到西式外交禮儀(禮賓),並接受國際法為中心的國際秩序原理?本書將考察這些問題,觀察清代對外交涉體制的變化,瞭解中西禮制的衝突根源,並探討“天下秩序”與中國近代政治文化的關聯。

二 研究回顧
過去有關中外互動的研究,指出中外禮儀的差異常變成中外交涉失敗的導火線,尤其是外國使者覲見皇帝的禮儀問題,往往讓中外雙方不歡而散,如乾隆、嘉慶年間,英國馬戛爾尼(George Macartney,1733~1806)、阿美士德(William Pitt Amherst,1773~1857)使節團的案例。就傳統中國涉外體制而言,或冊封外藩,或朝覲貢獻,或上表祝賀,皆屬“賓禮”的範疇。與“賓禮”相涉的封貢關係,只有不對等位階的主從關係。美國學者費正清將之稱為“朝貢體系”,日本學者濱下武志則著眼朝貢使團的交易行為,稱之為“朝貢貿易”。若干外交史學者則將總理各國事務衙門、外務部的成立,視作中國接受“條約體制”的象徵。過去對晚清涉外體制的研究成果豐碩,但多偏重外交史,未能考究禮儀意義,也未論及當時的民間輿論和外國公使的感受。幸好,近年新出史料甚多,可借此重新檢討過去未曾注意到的面向,如黃一農利用大量的圖像,重新檢討馬戛爾尼使節團訪華之事,具體呈現中西文化的差異,也讓禮儀與政治的互動更加清楚。以下將過去的研究成果,整理出三種看法,並概引一二經典成果,檢討利弊,提供本書發展的方向。

(一)朝貢體系論
過去學界著重討論清代賓禮之下的朝貢制度,如美國學者費正清指出,傳統中國沒有外交制度,但有融合政治、外交、貿易、文化於一體的朝貢制度,控制中國周邊國家政治、外交、貿易的工具,稱之為“朝貢體系”(Tributary State System)。費正清將“朝貢體系”的概念,作為傳統中國對外關係的特殊性,並以為“朝貢體系”讓中國產生優越感(中國中心主義,Sino-centrism),妨礙中國政治、社會的理性化,進而建構了“衝擊—反應”的理論模式,強調中國對外關係是保守封閉,將其視作阻礙中國往現代化發展的不利因素。費正清將清代政治、外交、經濟合於一體的“朝貢體系”論,影響極大,至今仍有其參考價值,但犯了西方中心主義的錯誤,過度貶低了中國自身的政治體制和思想文化。

對此,美國學界已有自省,批評費正清的“朝貢體系”過度簡化,或合理化帝國主義的侵略行為。例如,譚中(Tan Chung)批評費正清太強調文化因素的結果,反而忽略了鴉片戰爭的真正原因,並指出明清中國不像費正清說的那樣排斥海外貿易,“朝貢體系”只是抽離歷史事實的概念,不能當作明清兩代的涉外體制。何偉亞(James Louis Hevia)也歸納了學界對“朝貢體系”的質疑,如朝貢體系的形成時間、中國向外國贈予的利益、對外關係的刻板單一以及朝貢體系主要用於朝鮮、越南、琉球等周邊國家等問題。

中國、日本、韓國學者也有類似的質疑,開始提出“冊封體制”、“華夷秩序”、“禮治體系”、“中華世界秩序原理”等論點,證明東亞諸國的傳統國際關係是多面向的互動關係,並不像費正清指出的那樣,全歸因於中國單方面的影響。例如,阪野正高認為,東亞諸國不但有重疊的朝貢關係,也有雙重的朝貢關係,不只有以中國為中心的表現。張存武、全海宗也指出每個時代、每個國家的對外關係,取決於各國政治、經濟或文化上的需求,不能全歸因於中國單方面的影響。張啟雄考察儒家經典的解釋,提出“中華世界秩序原理”的論點,並以“名分秩序”、“封貢體制”、“奉正朔論”等多重概念,解釋周邊諸國願意維持主從關係的原因,進而建構以中國為中心的“中華世界秩序原理”。

除了費正清的“朝貢體系論”之外,濱下武志的“朝貢貿易體系論”也常被學人引用,有必要簡單回顧。濱下武志從“區域經濟”的角度,注意到中國和東亞諸國的貿易活動皆以自身利益為動機,實具有主動性。並主張“朝貢貿易體系”的論點,指出中國借“進貢—回賜”的方式,讓東亞諸國以中國為中心,不但形成了相應的商業網絡,也發展為東亞世界的區域經濟圈。同時,通過對白銀流通、貿易結構、外商資本、改革派思想等的考察,濱下武志反對費正清的“衝擊—反應論”,認為西方國家為了獲得他們想要的貨品,必須先加入以中國為中心的東亞區域經濟圈,故不能把近代亞洲的歷史簡單解釋為朝貢體系轉向條約體系的過程。

濱下武志“朝貢貿易體系論”雖從經濟史的角度,提供另一種研究途徑,但也有人提出不同的意見,或以為西方列強加入“朝貢貿易體系”的說法頗為牽強,或指摘“朝貢貿易體系”的圖式仍陷入費正清的距離迷思,仍以為東亞諸國離中國越近者,越容易受到中國的控制與影響。例如,高明士認為,濱下武志將朝貢關係解釋為商業行為,並未回歸歷史脈絡去處理貿易與朝貢的關聯,並指出朝貢行為只是一個現象,應從“天下秩序”去考慮中國與鄰近各國的關係。祁美琴認為,清代朝貢體制與明代朝貢體制的性質不同,不能混一處理,並指出明代是典型的朝貢貿易,先有朝貢關係,才允許貿易,嚴禁民間與外國通商;清代的朝貢貿易,乃以經濟性手段,追求政治目的的實現,但仍允許民間與互市國通商。濮德培(Peter C.Perdue)考察清帝國對西北邊患的軍事策略後,指出濱下武志只偏重中國東南沿岸的貿易因素,卻忽略了外交、權力、軍事等因素都會影響經濟圈的範圍。中村哲、川勝守等人則據明清兩代的海禁政策,批評濱下武志的“朝貢貿易體系論”缺乏實證,也質疑16世紀以降東亞貿易圈的連續性,指出朝貢貿易未必是東亞近代化的單一動力。近年日本學界重新檢討清代的通商制度,更注意到行商、邊境關市、互市國等問題,強調“互市制度”的重要性。如岩井茂樹、廖敏淑都指出“朝貢貿易”並不是清帝國唯一的通商辦法,“互市制度”才是傳統中國的主要通商模式,並借由“通商制度”,清帝國更能彈性調節與周邊諸國的關係。

此外,某些學者也批評費正清只以西方經驗為圭臬,忽略了中國的歷史發展,開始注重朝貢制度與中國傳統政治文化的關係。如李雲泉考察歷代朝貢體制的制度變化,並指出“華夏中心論”是中國學者對政治空間的思想資源,可謂研究朝貢制度的重要著作。不過,該書雖整理朝貢制度的運作,卻未分析朝貢制度的思想資源、存續條件及變化因素。例如,李雲泉避談俄羅斯、荷蘭、大西洋國(葡萄牙)的特殊性,更未區分清代的屬國、藩部、與國的區別。況且,對中國涉外體制,籠統用“朝貢制度”概括,實有再商榷的必要。因此,本書將考察清代涉外體制,並討論賓禮儀節與涉外體制的關聯,兼敘賓禮體制的變化原因、過程及影響,呈現中西禮制的糾葛將對清帝國政治、外交、文化產生何種影響。

(二)天朝中心論
“天朝”一詞是清帝國的自稱,如乾隆皇帝(1711~1799,1735~1795在位)回復英國國王喬治三世(George Ⅲ,1738~1820,1760~1820在位)的諭旨中,便使用“天朝”一詞,或以自稱,或用於代稱“中國”。費正清的“朝貢體系論”,刻意強調“天朝”、“優越感”、“排拒西方”等因素,遂有清帝國為了維持天朝體面,不願接受平等外交的說法。後來,受到“現代化理論”的影響,研究者往往將“天朝”二字用作專制王朝的代稱,或當作清帝國不解外情的原因,更多是等同於中國閉關自守的保守主義。因此,對馬戛爾尼、阿美士德使節團受阻之事,中國學界大多批判清朝君臣為了維護天朝體制,才會堅持“跪拜禮”的方案,拒絕西歐文明的輸入,遂讓中國陷入近百年的衰弱局勢。

隨著“現代化理論”的修正,學界重省“天朝”的定義,欲瞭解中國自稱“天朝”的原因。例如,阪野正高認為,“天朝定制”即保守派注重的華夷思想及支配他國的模式。劉紀曜指出“天朝意像”乃基於“天命觀”與“夷夏之防”的思想基礎,逐漸發展成中國獨特的對外態度,未必是中國自以為是的優越感。黃枝連則提出“天朝禮治體系”的論點,強調中國禮治文化在東亞諸國的影響,主張19世紀以前的中國憑藉“禮治主義”,不但成為東亞世界的文化中心,也維護了東亞諸國的國際秩序。張啟雄的“天朝定制論”著眼於“上天—天下—天子—天命—天朝—子民”的“天命論”,發展出天朝對海內外實施“法秩序論”與“禮秩序論”,並強調中國對外關係不可用歐美傳入的國際法概念去詮釋,否則有“以西非東”、“以今非古”的偏頗。佐藤慎一指出“天朝”是清朝確立的制度,而“天朝觀”是中國傳統知識份子(士大夫)對中華文明的自信心,更是他們重新認識世界的自我解剖和精神糾葛。

(三)禮儀衝突
關於中外禮儀衝突的研究,中外學界集中討論馬戛爾尼使華事件,不只召開紀念中英通使的學術研討會,也有數本專著、學位論文及大量的專文討論,可見其重要性。由於該議題的專著、論文眾多,本書將利用這些豐碩成果,不另討論馬戛爾尼使節團,只做研究回顧而已。對馬戛爾尼是否向乾隆皇帝行三跪九叩禮,中外學界各有見解,並以為“覲禮之爭”隱含中、英兩國不同的世界秩序觀。

例如,佩雷菲特(Alain Peyrefitte)探討中英雙方之間的價值觀及文化差異,並強調清帝國的文化背景和政治觀念,指出馬戛爾尼是否下跪的問題,實為中國與歐洲世界的文明衝擊讓中英雙方越行越遠,甚至互相誤解,引發日後不可避免的衝突。朱雍《不願打開的中國大門》最早利用中國第一歷史檔案館的清代檔案,史料豐富,但可惜的是,該書以“現代化主義”立論,批評乾隆皇帝的對外政策是“限關自守”,而覲見禮問題也被視作天朝的自大表現。何偉亞正視“賓禮”的重要概念(沿中線而行,Channeling along a centering path),並運用後現代主義的概念,欲修正費正清“衝擊—反應”的理論模式,說明朝貢體系的構成,立基於“多主制”(multitude of lords)的帝國想像(imagining of empire),從而推論中英兩國的覲禮之爭,實為兩個多種族帝國的霸權之爭。

何偉亞以“賓禮”作為該書的核心觀念,提到“賓禮”的可變性,實觸及“賓禮”與現實政治的關聯。可惜,何偉亞未再多闡述,便轉而強調藏蒙政策,欲建構以清皇室為最高君主的“多主制”,引起許多學者的質疑。有些學者批評“後現代史學”的史料可信度,或批評“多主制”過於主觀,誇大了滿漢之間的緊張度,也忽略滿、蒙兩族特有文化的發展,更模糊了理藩院與禮部的不同職能,忽略“賓禮”的施行物件、禮儀儀式及其文化意義。綜觀上述的評語,可知何偉亞最受爭議的問題,在於“多主制”的解釋。因為清帝國的“賓禮”實源於“天下秩序”的儒家理論。經過乾隆、嘉慶兩朝的禮學考證,儒家經典的名分、華夷、封貢等概念,多已自成一說,何偉亞沒必要再引入“多主制”的概念,讓“賓禮”的討論模糊焦點。正如羅志田指出的那樣,“如果要強調賓禮的重要性,就只能多關注具體的‘滿清’與一般意義上的‘中國’之同,而不是其異”。

相對于馬戛爾尼使團訪華的研究風潮,咸豐朝(1850~1861)以降的禮儀衝突問題,就顯得冷清許多。過去學界討論覲禮之爭時,往往簡化為叩頭問題,未曾區分“跪拜禮”的象徵意義,也不曾考慮中外雙方邊談判邊妥協的微妙互動,有必要重新探討。目前對中外禮儀衝突的問題,唯有王開璽的成果最為豐碩,尤其是2009年出版的《清代外交禮儀的交涉與論爭》為王開璽累積多年成果之集成之作。《清代外交禮儀的交涉與論爭》討論範圍甚大,不限於一國一事,篇幅浩大,史料豐富,幾乎討論了清代禮儀衝突的所有事件。然而,該書仍沿襲“現代化理論”的論調,同樣將中外禮儀衝突的問題,當作清帝國維持天朝體面的手段,並批評清朝君臣的自以為是,不願採用西式的平等外交禮儀,才會與世界失之交臂。

王開璽的說法,顯然是另一種“西方中心主義”,無視“賓禮”與西方外交禮儀的不同本質,相當可惜。有必要說明的是,王開璽《清代外交禮儀的交涉與論爭》第五、六、七章集中于咸豐至光緒朝的禮儀衝突,給筆者提供了許多啟發與刺激。本書與此雖有議題重複之嫌,但本書的研究動機、研究方法及使用資料,皆不同于王開璽及其論點。首先,本書首重“賓禮”與政治的關係,及“賓禮”的自發性轉化,與王開璽關注的重點,實為不同的討論層次。其次,本書將利用新政治史的研究方法,分析“賓禮”與傳統中國政治文化的關聯,絕不同於“現代化理論”的論點。再次,本書以外交史的多檔案對照法,利用原始檔案、多國檔案及近年新出版的報紙彙編、日記、筆記等資料,進行研究,應有突破舊說之處。

從上述的研究回顧,可見過去的成果多受到“朝貢體系論”的影響,將“賓禮”當作政治、文化的混合體,以為是中國控制周邊各國的軟實力;或套用“現代化理論”的解釋,將“賓禮”貶為阻礙中國接受西洋文化的禮儀制度。這些前人成果並未深入分析清代的“賓禮”究竟如何運作,清政府為何與外國公使發生禮儀衝突,覲禮之爭又衍生出哪些問題。為了探討這些問題,本書將從咸豐、同治、光緒三朝的覲禮之爭,觀察清政府與外國公使的互動,瞭解清政府的覲禮原則、內部討論及“賓禮”的變化,進而分析禮儀與政治的關聯,探討覲禮、賓禮及中國對外交涉體制的關係。

三 研究取徑與資料說明
政治制度的解構與重構,不全是被動的妥協,更多時候是當局者的理性選擇。事實上,人們面對新事物時,往往試著從歷史先例找尋其思想資源及其對應方式。因此,所謂的“保守”或“改革”等詞語,不能簡單等同為“傳統”或“現代”的概念。對清朝君臣而言,嘗試“舊瓶裝新酒”與“新瓶裝舊酒”的努力後,發現無法再調節體制,應付危機,原有的機制才能退場,並建立新的體制,接納新的事物。“外國公使覲見禮”的制訂,亦是同樣的道理。因此,本書將討論咸豐到光緒朝的覲禮之爭、“外國公使覲見禮”的擬訂及晚清政治文化的變化,厘清覲禮更定後的不變之處,方可瞭解近代中國政治文化的轉變。

在咸豐、同治、光緒三朝,清帝國內政、外交問題相互糾結,又有保守、變法、革命思潮互為交錯,各種勢力此消彼長,讓晚清政治、外交、文化史的研究仍有許多課題有待探討。而“外國公使覲見禮”的更定,直接牽涉到皇權的正當性基礎,有可能動搖以“天下秩序”為核心的傳統政治文化。因此,為了分析皇帝、總理衙門、各地督撫及地方士紳的立場,有必要利用“政治文化”(political culture)的研究方法,注意不同人群的政治主張及其對覲見禮問題的態度,方能理解“外國公使覲見禮”問題對晚清政治文化的衝擊。

本書有必要先說明“政治文化”的定義,表示本書的定義不同於政治學上的定義,避免有“以西非東”之弊。“政治文化”是政治學的重要領域,約在1960年代開始風行,意指某一政治群體普遍接受的政治取向。由於“政治文化”強調政治取向,故在政治學研究上,多偏重心理分析和民意調查的資料測量,藉以說明該群體的“政治文化”的模式、變數及其預測結果。直到1980年代末期“政治文化”的概念才被歷史學家所用,但偏重于個人心理的分析,並囿于傳統與現代的模式,簡單地將中國現代化發展的不穩定因素全歸咎于中國傳統文化。若干學者也批評這樣的觀點,認為“政治文化”用於歷史研究上,可能會太過簡化儒家思想,也可能抽離傳統中國的歷史經驗。

根據前人對“政治文化”的討論,本書定義的“政治文化”,乃指一個政治體系的成員共同具有的政治理想與行為規範,並成為維持該政治體系運行的必要條件。“禮”是傳統中國政治和文化的核心,也是中國人安身立命的原則。而“賓禮”是中國與周邊諸國建立政治關係的表現儀式,通過冊封、朝覲、納貢等儀式,可實現以德服人、教化四夷的“中華世界秩序原理”。據此,本書擬采“政治文化”的概念,融合政治史、制度史、外交史及思想史四種視野,綜合討論咸豐、同治、光緒君臣及地方士紳對“外國公使覲見禮”的立場與態度,重新厘清“外國公使覲見禮”對“賓禮體制”的影響,觀察近代中國從“賓禮”到“禮賓”的轉變。

依據上述的立場,本書欲處理的問題如下:第一,過去多以為禮儀是當權者的工具,但筆者認為,禮儀不只單方面為權力服務,反過來說,權力同樣也為禮儀折節。“賓禮”的儀式呈現,讓皇帝、官員、外藩王公、屬國貢使等人,都成了表演者。“賓禮”如何借由肢體表現、言談話語、遊宴活動,讓每位表演者重新體認自身的身份,也使君臣關係具體化,不再是抽象的權力遊戲。第二,傳統中國“賓禮”與近代歐洲禮儀的性質截然不同,但在兩者轉換之際,反對與贊成的聲音同時存在,對“賓禮”也出現不同的認知。此時,清帝國的政治體制如何調整,讓臣民接受這些改變,免除皇權動搖的危機。第三,從清朝君臣討論覲禮方案的過程,可見“賓禮”不是一成不變,而是根據現實需求,自作調整,出現“賓禮”的禮意轉化,解決內政與外交的衝突。面對“賓禮”的調整,總理衙門如何自圓其說,士人能否接受這些說法,各國公使是否遵從賓禮體制的規範。

在資料運用上,本書特別重視原始檔案,補充《清史稿》、《籌辦夷務始末》及《清季外交史料》的不足,更能瞭解清政府與各國公使的互動,以及總理衙門與地方督撫各自立場的表述。因此,本書主要利用臺北“故宮博物院”典藏的起居注、宮中檔及軍機檔,中研院近代史研究所典藏的《清季總理各國事務衙門檔案》和《外務部檔案》,中國第一歷史檔案館收藏的部分檔案,以及國家圖書館館藏的清代資料。除了上述檔案資料外,晚清士人的日記、時論、筆記、報紙,如《翁同龢日記》、《薛福成日記》、《退想齋日記》、《申報》等資料,不只記錄了公使請覲之事,也多有評論,或寫下個人感想。若能參照官方檔案、私人日記及報紙評論,研究視角便不再限於上層階級,亦能瞭解清朝官員、地方士紳的真正想法。除了分析清朝君臣的想法之外,本書也會討論各國公使議禮的動機,將利用英國外交檔案,還有駐華公使、傳教士回報的報告、日記及書信。日本外務省的《日本外交文書》、中研院近代史研究所編《中美關係史料》、中國第一歷史檔案館編《外務部中外關係檔案史料叢編》、國家圖書館編《清代孤本外交檔案》等資料,皆可參照比對,不再限於一國一人之論。

四 章節架構與論述
緒論即說明本書的問題意識、研究方法、使用史料,結論則總結各章的論點,整合本書的主要觀點,故緒論、結論不計入章節。為了解決上述各項問題,本書分排章節如下,並說明每一章欲闡述的議題。

第一章討論清代賓禮的理論基礎、現實運作及清初諸帝款待俄國使節團的儀式。首先,探討清帝國如何建構“賓禮體制”,並通過賓禮儀式的實踐,將清政府、地方督撫、藩部、屬國結合為一個政治文化共同體。其次,從清代賓禮的實際運作,分析清代賓禮的禮學依據,清朝君臣看待“天下秩序”的態度將如何影響清政府的對外政策。再次,討論清初諸帝與俄國使節團的互動過程,觀察順治、康熙、雍正、乾隆君臣對俄國的態度,分析清代“賓禮體制”的異同之處。

第二章先說明咸豐君臣面對《天津條約》之“公使駐京”條款的態度,並討論清政府不遵《天津條約》的原因。其次,分析英、法與美、俄兩者對清政府的換約方案,為何有不同的處理態度。再次,分析《北京條約》簽訂後,清政府不得不同意“公使駐京”一款,但為何咸豐皇帝仍不允“親遞國書”一款。最後,分析咸豐皇帝為何限制總理各國事務衙門的許可權,又為何堅持總理衙門及南、北洋通商大臣的對外交涉模式只是通商事務的另一種形式,並檢討地方督撫的交涉許可權是否源自“賓禮體制”的舊體制。

第三章討論總理衙門如何處理“公使請覲”的問題,又如何製造輿論,說服反對者接受外國公使行“鞠躬禮”之事。再從斌椿、蒲安臣出使歐美諸國的嘗試,將如何影響“外國公使覲見禮”的制訂,而總理衙門與各國公使又如何解釋“中外儀節不同”一語的意義。最後,分析各國公使、總理衙門、地方督撫、言官主張的覲見禮方案,並探討總理衙門的覲見禮方案,如何能取得各國公使和保守派人士的諒解,成為另一種形式的賓禮儀式。

第四章先從《申報》對“公使請覲”的報導與評論,說明中國官民如何看待“公使請覲”之事,並觀察地方士紳能否接受總理衙門的解釋。其次,從《中外往來儀式節略》的擬訂過程,探討總理衙門、地方督撫、各國公使、領事如何處理中外官員的相見儀式、公文規範、接待儀節等問題,並觀察《中外往來儀式節略》是否有利於中外關係。再次,從俄、法兩國公使的抗議,說明公使團亟欲改變同治十二年(1873)的覲見禮方案,而總理衙門如何應對公使團的要求,公使團又會做出哪些妥協,讓總理衙門同意更改覲見禮儀。最後,甲午戰爭後,“天下秩序”不再有具體的屬國存在,其概念如何調適、轉化,光緒皇帝又如何借覲禮的更定,解決“天下秩序”的失序問題。

第五章先從《和議大綱》的“外國公使覲見禮”問題,說明清政府雖被迫接受外國公使的方案,但光緒君臣通過交涉,讓新制訂的“外國公使覲見禮”仍保留了“賓禮”的等差原則。其次,從醇親王載灃出使德國之事,分析德國外部、呂海寰(1842~1927)及外務部如何交涉載灃使節團的覲見禮問題。再次,討論《辛丑和約》簽訂後,慈禧太后為何屢邀各國公使、公使夫人及外賓入宮覲見。外務部如何在“賓禮”的基礎上,採用西式禮儀,規範公使、公使夫人覲見太后、皇帝的相關儀式,又如何通過《申報》、《外交報》向中國官民解釋“西禮中用”的禮制更定。最後,從中國官民對西式禮儀的看法,探討他們如何看待“外國公使覲見禮”的改變,又是否接受清政府改行西式禮儀,與外國交際,接待外賓,進而分析“賓禮”如何過渡到“禮賓”,探討清末的“賓禮體制”是否崩解的問題。






2014年9月8日星期一

新清史理論之盲點:大清即中國



四、
康熙遺詔中所見大清皇帝的中國觀*
《清帝國性質的再商榷:回應新清史》,頁109─114


甘德星

國立中正大學歷史系


前言

近年來美國學者歐立德(Mark Elliott)提出「新清史」(New Qing History)之說,[1]其中一個主要論點為大清非中國,中國只是其兼攝內陸歐亞帝國的一部分,因此大清皇帝並不能視作為傳統的中國皇帝。[2] 不過,考之史實,這個觀點頗有待商榷的地方。我打算用一個比較具體的個案作為例子,來說明「新清史」理論的謬誤之處。我想這比有些學者用推論的方法來反駁「新清史」的說法,更為有效。


康熙遺詔(臺戊本)

我在本文中所選用的實例,是研究清史的學者都耳熟能詳的康熙遺詔。不過,除了漢文本外,我還會利用一個以前較少學者使用的滿文本。原來的康熙遺詔共有四份:兩份保存在北京第一歷史檔案館,兩份則庋藏於臺北中央研究院歷史語言研究所。我分別稱之為京甲、京乙;臺丙,臺丁四本。京甲本為滿漢文本,但殘缺不全。京乙本為漢文的禮部「謄黃」。臺丙本也是滿漢文本,但滿文部分只剩最後一行emuci aniya omšon biyai juwan ilan數字。臺丁本則是漢文本。除了京乙本是禮部「謄黃」,不蓋御寶外,其餘三份皆蓋有滿漢文御寶:xan-i boobai/ 皇帝之寶。


公元2000年我在北京又得到另一遺詔的影印本。該本只有滿文,沒有漢文,一共4頁,75行,是一個較完整的版本。京甲本的殘餘部分基本上與之相同。據說該本源自臺灣,故我稱之為臺戊本。


從影本可以判定,這個臺戊本應該不是詔黃。影件只有滿文部分,並無相連的漢文遺詔,而且上面沒鈐「皇帝之寶」滿漢文寶璽。本中有錯、漏字,如行6的xacikingge,正字應作xancikingge;行68的xaiiraraqôngge,最後的音節漏了加點等等。

我原來想臺戊本可能是禮部刊刻的滿文「謄黃」。但影本內日期部分只書年、月 elhe taiifin-i ninju emuci omšon biyai …,沒有日,可見影件是早已擬好,待康熙皇帝駕崩後,經內閣補上日期juwan ilan-de,用黃紙墨書,再行正式公佈的稿本。


滿文《清實錄》雖然也載有遺詔全本,但文字多經改動潤色,並非原件,就史料價值而言,當在臺戊本之下。臺戊本中詔書的啟首套語Abqai hesei forγon-be alixa xôwangdi hese「奉天承運,皇帝詔曰」(行1-2),《清實錄》改作delhentume wasimbuxa joo bithei gisun……sehe(遺詔曰),文末dorgi tulergi-de bireme selgiyehe「布告中外,咸使聞知」的公文成語,改以命令句dorgi tulergi-de bireme selgiye結尾,兩者行文用字與原件相去甚遠。其他改動,或出於音韻修辭,或出於與漢文對譯。前者如行23 olγošome,《清實錄》改作olxošome;後者如行5mafari-be gengulere(法祖)中的gengulere,《清實錄》依漢文改為更貼近原意的alqôdare,行70的雍正御名In Jen胤禛,《清實錄》因避諱而貼黃漏空,由此亦可見康熙時滿人漢化之深。


我所以選用遺詔來駁斥「新清史」之誤,是因為遺詔乃國家權力轉移的重要文書,其所代表的意義,非一般的諭誥命令所能相比。值得注意的是,遺詔上只有滿、漢兩種文字,可見遺詔是大清認定滿漢為國家主體的下意識反射,即所謂的「滿漢一體」,而非「滿漢蒙回藏一體」。漢文通行中國,故遺詔先寫漢文,後寫滿文。入關後,滿人急速漢化,滿文識者不多,但因為滿文是統治者的語文,有其象徵意義,所以製作滿文本亦有其必要。遺詔上的御寶也是滿漢並列。但遺詔宣讀時,卻先宣滿文,後宣漢文,可見滿洲雖然漢化,但其滿洲意識仍存。


作為中國之主的康熙

從遺詔中可見,康熙的稱謂為「皇帝」,滿文本直接將之翻譯作xôwangdi,而不是內陸歐亞傳統的「汗」xan;他統治之國是「中國」Dulimbai Gurun,所統治之民是所謂的「中國之人」,即「中國人」。康熙這個中國皇帝的身份,也同時受到帝國邊緣民族的認同。對這些民族而言,康熙是「中國至聖皇帝」或「統馭天下中國之主」。[3]

應該指出的是,康熙治下的中國,與傳統的中國王朝無異。傳統的中國基本上指的是一個文化、地理空間,與近代受西方國族主義影響下出現的「中國」不盡相同。康熙時大清的領土,除關內漢地外,也包括關外新附的內陸歐亞部分。不過,塞外蒙古,雖併於中國,但關係不如關內滿漢二者的密切。遺詔正本沒有蒙文本即為明證。發給外藩蒙古的遺詔乃由內閣兼繕蒙古字樣的謄黃。


清代專職邊疆事務的機關是理藩院。從其滿文名稱tulergi γolo-be dasara jurγan,也可以窺見蒙藏二地與漢地之疏離。滿文tulergi一詞即外面之意。理藩院的蒙文對譯為 γadaγadu Mongγol-un tőrő-yi ǰasaqu yabudal-un yamun,其中γadaγadu一字,指的也是「外」,其藏文對譯則為phyi’i Sog-po’i khrims grwa,所謂phyi者,其意亦是「外」。(見《五體清文鑑》)。由此可見,蒙古雖屬大清,但對位處內地的滿洲而言,仍為邊地,宜乎漢文稱之為「藩」也。


臺北國立故宮博物院藏《康熙與羅馬使節關係文書》以及康熙二十八年(1689)的《尼布楚條約》(見Сборникъ договоровъ Россіи съ Китаемъ 1689-1881 гг),皆可印證康熙遺詔中所反映的中國觀。於《與羅馬使節關係文書》中,康熙諭西洋人傳教士曰:「你們不遵教化王的話,得罪天主,必定教你們回去,那時朕自有話說,說你們在中國年久,服朕水土,就如中國人一樣,必不肯打發回去……你們領過票的,就如中國人一樣,爾等放心,不要害怕領票。」[4] 《尼布楚條約》滿文本一開始即用 Dulimbai Gurun-i enduringge xôwangdi (中國的至聖皇帝)一詞,拉丁文本作Sinarum Imperatoris,俄文本無對譯,但條約中出現китайского一字(<Китай中國),可見俄人亦視大清為中國。


遺詔中,康熙將自己接續於中國正統,並以清朝是明朝的後繼。詔中除述及黃帝、三代明聖之主、舜、禹、項羽、漢高祖、諸葛亮、梁武帝、侯景、隋文帝、 隋煬帝、 陳友諒、明太祖之故事外,亦引用《易·遯卦》、《尚書·洪範》之中國傳統經典以說明問題。遺詔云:「歷觀史冊,自黃帝甲子迄今四千三百五十餘年共三百一帝,如朕在位之久者甚少」;又云:「昔漢高祖係泗上亭長,明太祖一皇覺寺僧。  項羽起兵攻秦而天下卒歸於漢,元末 陳友諒等蜂起而天下卒歸於明。我朝承襲先烈,應天順人,撫有區宇,以此見亂臣賊子無非為真主驅除也。」遺詔中並未引用遼金元之史實,其欲擺脫內陸歐亞之糾纏,至為明顯。

康熙於遺詔中特意援用漢人典故,將滿洲納入中國王朝的歷史系譜內,自有其因。滿洲入關之初即急速漢化,至順治因漢化而下罪己詔。康熙漢化更深,遺詔乃其對前朝滿洲本位的反動。然而,滿洲既經漢化,本質上即由夷變夏。華夷二詞,亦因此同時「解構」。在康熙漢化的語境中,滿漢已成一體,並同為中國之人。


不過,這種華夷不分的思想,並不自康熙時始。清代以前早已有之。其最終或可追溯到孟子的《離婁》章:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」漢人儒生如李紱者,亦據此而認定康熙與傳統的中國君主無異。 (《穆堂別稿》,卷24,頁2b-3b)。


結語

揆之以上所論,「新清史」有關大清非中國之說並不正確。大清即中國,其重心在關內漢地,並非在內陸歐亞。康熙是以漢地為中心的中國之主,他之前的順治及其後的雍正、乾隆諸帝,亦無不自視如此,康熙並非獨例。






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*這篇小文是根據我在國立中央大學「清帝國性質研討工作坊」的發言稿修改而成,所以只代表我對這個問題的初步想法。日後將另撰一詳盡的專論。

[1] Mark Elliott, “Manchu-Language Archives and the New Qing History,” 收入「文獻足徵──第二屆清代檔案國際學術研討會」會議論文集(上)(臺北:國立故宮博物院,2005),頁19-40。中文譯本可參看歐立德著、李仁淵譯,〈滿文檔案與新清史〉,《故宮博物院季刊》,24.2 (2006年11月),頁1-18,唯譯本有漏譯及誤譯之處,利用時宜加注意。

[2] 「新清史」的理論,除大清非中國說外,尚有其他的謬誤,我另有專文討論,於此不重複。

[3] 《清實錄•聖祖仁皇帝》(北京:中華書局,1985),卷之一百四十二,頁569;卷之二百六十三,頁589。

[4] 馮明珠,〈紅票:一封康熙皇帝寄給羅馬教宗的信〉《故宮文物月刊》344期(2011年11月),頁26,圖十。

2014年9月2日星期二

清帝國性質的再商榷:回應新清史







編者: 汪榮祖

出版社:遠流

出版日期:2014/09/06



內容簡介
近年美國學界流行「新清史」之說,認為清朝是中亞帝國而非中華帝國,且以譴責所謂大中國沙文主義為藉口來否定漢化,以混淆族群認同與國家認同來論證清朝並不認同中國,其言外之意質疑中國領土主張的歷史正當性,呼之欲出。顯而易見,所謂「新清史學派」無疑在大做翻案文章,以「新見」引世人注目,但無論在理據上與事據上都難以自圓其說。本書由海峽兩岸八位歷史學者分別提出論文,在學術會議上共同商榷後,整編而成。八篇論文聚焦於同一主題,從不同角度,諸如文化、學理、族群、漢化、認同、教育、制度,以及中國觀多方面,回應了「新清史」的論述,肯定了清朝是中華帝國的延伸,中國從秦至清原是多民族帝國,不僅漢化,也有胡化,清朝並不是中國歷史上唯一非漢族建立的朝代,豈能獨外於中國?本書內容豐富,文筆犀利,不僅有高度的學術價值,而且頗具可讀性,值得推薦給廣大的讀者。

目錄
導論  汪榮祖
一、 以公心評新清史 汪榮祖
二、 新清史與南北文化觀 楊念群
三、 清朝的戰略防衛有異於近代帝國的殖民擴張──兼論英文中國史學界中
「歐亞大陸相似論」和「阿爾泰學派」 吳啟訥
四、 康熙遺詔中所見大清皇帝的中國觀 甘德星
五、 從御製詩論乾隆帝的文化認同──兼說清朝的漢化 崔 岩
六、 清朝統治中國成功的代價──以八旗子弟的教育為例 葉高樹
七、 晚清時期滿族的國家認同 定宜莊
八、 論何炳棣撰〈清代在中國史上的重要性〉 徐 泓
引用書目


編者簡介
汪榮祖
1940年出生,台灣大學歷史系畢業,美國西雅圖華盛頓大學史學博士。從1971年到2003年在美國維琴尼亞州立大學執教31年。曾擔任台灣師大、政大、台大、上海復旦客座教授、澳洲國立大學客座研究員。回台灣長住後,初出任民雄中正大學講座教授(2003-07),曾任文學院院長一年(2004-05)。現任中央大學歷史講座教授,中央研究院近代史研究所兼任研究員,紐約藍彼得出版社(Peter Lang)中國近代史叢書主編,美國維琴尼亞州立大學榮譽教授。積極從事學術研究與著述,撰有《史傳通說》(1988)、Beyond Confucian China(2010)等中英文專書18種,其中A Paradise Lost: the Imperial Garden Yuanming Yuan (Honolulu: University of Hawaii Press, 2001) 獲全美國研究圖書館聯合會期刊評選為年度最佳學術著作之一(Outstanding Academic Titles)。中英文學術論文80餘篇,中英文書評40餘篇,散文集2冊。1993年獲美國維琴尼亞州社會科學院評選為傑出學者。