2015年7月6日 星期一

Spoken Sibe: Morphology of the Inflected Parts of Speech





Spoken Sibe: Morphology of the Inflected Parts of Speech
Zikmundová, Veronika
Distributed for Karolinum Press, Charles University
231 pages | 6 3/4 x 9 1/2 | © 2013
ISBN-13: 978-8024621036 ISBN-10: 8024621037
 $24.37


At present, the Sibe language is the only still-active oral variety of Manchu, the language of the indigenous tribe of Manchuria. With some 20,000 to 30,000 speakers it is also the most widely spoken of the Tungusic languages, which are found in both Manchuria and eastern Siberia. The Sibe people, who live at the northwestern border of the present-day Sinkiang Uyghur Autonomous province of China, are descendants of the garrison men of the Manchu army from the eighteenth century. After annexing the area, the Manchus sent the Sibe’s predecessors there with the task of guarding the newly established border between the Manchu Empire and Russia. They remained isolated from the indigenous Turkic and Mongolian peoples, which resulted in the preservation of the language. In the 1990s, when the oral varieties of Manchu became either extinct or on the verge of extinction, Sibe survived as a language spoken by all generations of Sibe people in the Chapchal Sibe autonomous county, and by the middle and older generations in virtually all other Sibe settlements of Xinjiang.Spoken Sibe is a carefully researched study of this historically and linguistically important language

List of abbreviations
Introduction

1. Characteristics of spoken Sibe
1.1 Notes on the phonetics and phonology
1.2 Questions of transcription
1.3 Remarks on the Sibe vocabulary
1.4 Remarks on syntax—negation
1.5 World classes in spoken Sibe
2. The Noun
2.1 The category of number
2.2 The category of case
3. Qualitative nouns
3.1 Qualitative nouns formed by derivational suffixes
4. Pronouns
4.1 Personal pronouns
4.2 Remarks on the personal pronouns
4.3 Demonstrative pronouns
4.4 Interrogative pronouns
4.5 Notes on demonstrative and interrogative pronouns
5. Numerals
5.1 The cardinal numerals
5.2 The ordinal numerals
5.3 The idiomatic use of numerals
6. Spatials
6.1 The spatial system in written Manchu
6.2 The spatial system in spoken Sibe
7. The verb
7.1 The verbal system of spoken Sibe
7.2 Finite verbs
7.3 Imperative and optative forms
7.4 Verbal nouns
7.5 Converbs
7.6 Deverbal suffixes
7.7 Vicarious verbs

Acknowledgments
Appendix
Vocabulary
References
Summary


2015年7月3日 星期五

村上信明教授演講:清朝の蒙古旗人




二零一五年五月二十八日上午十點,村上信明教授蒞臨中正大學歷史系演講,講題為:「清朝的蒙古旗人」。村上教授現為日本創價大學副教授,長期研究清朝的蒙古旗人與藩部統治的關係,已發表多篇相關論文,並著有專書《清朝の蒙古旗人-その実像と帝国統治における役割》。

演講一開始,村上教授為同學介紹日本的清史研究概況。他著眼於大清國統治的多面性, 說明在日本「清代史」與「清朝史」的差異與研究脈絡,並說明其研究取向與今日「新清史」的異同。村上教授接著帶出這次演講的主題:蒙古旗人及其在清朝統治中的角色。
















根據村上教授的研究,編入八旗的蒙古人,雖然與遊牧生活漸行漸遠,但直到清代中期,仍保有其蒙古特質。滿洲統治者對蒙古旗人的蒙古特質頗為重視,蒙古旗人被任用於藩部統治,使清朝的治邊更加順利。

蒙古旗人的蒙古特質,主要表現在蒙古語能力與藏傳佛教信仰兩方面。入關後蒙古旗人漸丟失其語言,但仍有部分蒙古旗人保有此能力。由於滿洲統治者刻意讓蒙古旗人保有自己的語言,因此在雍正朝以後,出現了一批被任用於理藩院處理蒙藏事務的蒙古旗人。

在藏傳佛教信仰上,蒙古旗人入關後並未丟失其信仰。村上教授舉《百二老人語錄聖道與佛教》一文為例,說明蒙古旗人是從「蒙古人認同感」的意識來繼續信仰藏傳佛教。他說蒙古旗人不但認為自己不悖於儒教,而且更認為他們的信仰有助於藩部統治。蒙藏地區的首領,因為蒙古旗人信仰藏傳佛教而認為他們與自己有相同的價值觀,而西藏部分首領,亦通蒙文,因此他們也認為蒙古旗人較易溝通。


演講結束後,同學們踴躍提問


甘德星老師與村上老師於研究室對談

    演講後討論熱烈。滿洲研究班蔡名哲、林書寧、王婷分別就「蒙古旗人的藏傳佛教信仰問題」、「初入關之時的蒙古旗人文化展現問題」、「雍乾時期八旗蒙古的人數異動及人口來源問題」向村上教授提問。歷史系郭秀鈴教授與大學部連承唏同學則以比較歷史的角度,分別就現代國族的語言政策、西方王權與教權問題,與村上教授討論清朝統治的特殊性。


(中正大學滿洲研究班蔡名哲)


2015年7月2日 星期四

清朝のアムール政策と少数民族


東洋史研究叢刊之六十九(新装版 7)

松浦 茂



A5上製・530頁・税込 7,560円
ISBN: 9784876985272
発行年月: 2006/02

書評
『社会経済史学』Vol.72, No.5,2007、評者:中見立夫氏
内容17世紀以降のアムール川・サハリン地区は歴史の闇に閉ざされてきた。近年の史料公開を受け、世界に先駆けて、当地の政治、経済、社会、文化…と、多面的にとらえ、世界史の一環として位置づけを与えた先駆的な研究書である。中国・ロシア・日本の中間にあって、利害が激しく対立した地域だけに、それぞれの近代史研究に与えるインパクトも大きい。

目次序文
第一部 清朝の北方調査
第一章 ネルチンスク条約直後清朝のアムール川左岸調査
はじめに
第一節 アムール川左岸調査隊の結成
第二節 アムール川左岸調査の概要
第三節 ランタンの地図と国境の問題
おわりに

第二章 一七〇九年イエズス会士レジスの沿海地方調査
はじめに
第一節 中国在住イエズス会士のエゾ観
第二節 一九〇七年にレジスらが通過したコース
第三節 レジスのエゾ研究
おわりに

第三章 一九二七年の北京会議と清朝のサハリン中・南部進出
はじめに
第一節 清朝のサハリン北部進出
第二節 ロ清の国境交渉とホマンの地図帳
第三節 北京会議後の清朝のサハリン中・南部進出
おわりに

第二部 アムール川水系の経済構造と商人
第四章 十七世紀アムール川中流地方住民の経済活動
はじめに
第一節 アムール川中流地方の住民
第二節 交易の民としてのアムール川中流の住民
第三節 アムール川中流地方の住民と清朝の関係
おわりに

第五章 十八世紀アムール川下流地方のホジホン
はじめに
第一節 アムール川下流辺民の北京行
第二節 ホジホンとサルガンジュイの再上京
第三節 ホジホンと北方交易
おわりに

第六章 十八世紀のサハリン交易とキジ事件
はじめに
第一節 アムール川下流のホジホンとサハリン交易
第二節 キジ事件の顛末
第三節 キジ事件後のサハリン交易
おわりに

第三部 アムール川中・下流地方の辺民
第七章 アムール川中・下流地方の辺民組織
はじめに
第一節 太宗時代のウスリ川下流、アムール川中流地方の攻略と辺民制度の起源
第二節 順治以降のアムール川下流地方への進出
第三節 アムール川下流・サハリン地方の辺民組織
第四節 辺民の戸籍とその継承
おわりに

第八章 康煕前半におけるクヤラ・新満洲佐領の移住
はじめに
第一節 康煕九年のクヤラ佐領編成とその吉林移住
第二節 康煕十三年の新満洲佐領編成
第三節 新満洲佐領の移住
おわりに

第九章 十八世紀のアムール川中流地方における民族の交替
はじめに
第一節 十八世紀初めのアムール川中流地方における民族分布
第二節 雍正十年における八姓佐領の編成
第三節 七姓ヘジェの構成と中国領赫哲族の起源
おわりに

第四部 清朝のアムール統治システムと辺民社会
第十章 清朝のアムール地方統治
はじめに
第一節 ニングタ副都統がアムール地方に派遣した旗人
第二節 イランハラ副都統がアムール地方に派遣した旗人
第三節 旗人の職務とその規律
おわりに

第十一章 ウリンの輸送問題と辺民制度の改革
はじめに
第一節 ウリン輸送の迅速化とウリン縫製の中止
第二節 ウリン需給の不均衡と辺民の定額化
第三節 ウリン輸送の合理化と乾隆四十四年の改革
おわりに

第十二章 繊維製品の流入と辺民社会
はじめに
第一節 アムール川下流地方への繊維製品の流入
第二節 ウリンの構成
第三節 繊維製品の流通と辺民の衣服
おわりに

附篇第一 十九世紀におけるアムール川下流地方辺民の貢納状況
附篇第二 間宮林蔵がデレンで出会った中国人

あとがき
参考文献
索  引
英文要旨

──────────────────────────────────────
松浦 茂 (まつうら しげる) 教授
地理学・歴史学

専攻 / 講座 / 分野
共生文明学/比較文明論/地域文明論

研究分野

東北アジア史、東アジア地理学史 

キーワード
アムール川、辺民、ウリン、エゾ問題、ランタンの地図、中継交易、満洲語档案、清初史、東アジア地理学史、アムール史

研究テーマ
中国東北地区とアムール=サハリン地方からなる東北アジア地域は、日本・中国・ロシアの間にあって、独自の歴史的役割を果たした地域であった。第一次資料である満洲語档案・漢文史料・欧文史料などにもとづいて、東北アジア地域と周辺地域との政治・経済的な関係、および少数民族の社会と文化を考察する。それとともにヨーロッパ人の東北アジア研究史を、世界的な観点から見直す。具体的には中国に滞在したイエズス会士の東北アジア研究や、ロシア人のシベリア調査を、当時地理学上の大問題であったエゾ問題と関連づけて考察する。これによりアジア史の中に、東北アジア史の地位を確立することを目指す。このような課題を達成するための研究指導を行う。

代表的著書,論文等
『清の太祖ヌルハチ』(白帝社,1995年)
「十八世紀アムール川下流地方のホジホン」(『東洋史研究』第55巻第2号,1996年)
「ネルチンスク条約直後清朝のアムール川左岸調査」(『史林』第80巻第5号,1997年)
「十七世紀アムール川中流地方住民の経済活動」(『東方学』第95輯, 1998年)
「一七〇九年イエズス会士レジスの沿海地方調査」(『史林』第84巻第3号,2001年)


2015年7月1日 星期三

紀念王鍾翰先生百年誕辰學術文集




出版社: 中央民族大學出版社
出版年: 2013-8
頁數: 1032
定價: 300.00元
裝幀: 精裝
ISBN: 9787566004765


王鍾翰先生的學術成就和地位代序
明清職官別稱條目的增補問題—讀《中國歷代官制大辭典》商榷二
在制度和現實之間:清代的太監
明遺民與清初碑傳紀年—以黃宗羲為中心
清代北京的俄羅斯旗人與中俄文化交流
清代的高牆制度
關於清朝遣俄使節的幾個問題
關於朱批奏摺制度起源的再思考
清代的京控與叩閽
組織、官號與明末清初的滿族社會
東征故將與山陰世家—關於吳宗道的研究
朝鮮使臣見聞記述之康雍史事考評—以爭儲及雍正繼位為核心
清初降臣柳同春的旌賞之路
皇太極即位新考
皇太極設立都察院時間考析
論順治朝科道官與清初弊政
清代河工貪冒考論
清代畿輔地區內務府皇莊的征納
康熙帝詩詞中治邊思想透析
康熙的“中和”之道與康熙朝政治
從“民情”到“恨官”:18一19世紀山東紳民抗糧動因的轉變
清末中等社會與民族國家建構
晚清時期滿族“國家認同”芻議
清末民國時期“旗族”內涵之初探
清代外藩蒙古會盟制度淺探
清入關前對外藩蒙古所制殺害逃亡者處罰規定雜考
清初滿洲八旗朝鮮通事官述略
清初滿蒙關係建立中的重要人物達雅齊考略
古爾布希家系與事蹟補證—以滿文《古爾布希家傳》為中心
噶爾丹與五世達賴關係芻探
回眸蒙藏關係中的幾位著名學問高僧
滿文檔案所見噶爾丹死後清廷、蒙古王公及藏傳佛教的關係
從“獲勝”到“敗北”:烏蘭布通之戰史料研析
和通泊之役與大清國的邊務危機—以軍機處滿文檔案為中心的考察
清代察哈爾蒙古西遷新疆及其意義
清乾隆時期對嘉絨藏區的治理
清代霍博克賽裏土爾扈特蒙古赴藏熬茶活動初探
《清朝前期理藩院滿蒙文題本》中蒙古朝覲探究
論清季中國西北回民事件的宗教民族因素
清代蒙藏地區民族立法異同研究
清朝軍機處檔案方本:上諭檔與有關的方本檔案史料
滿洲語文在清朝歷史舞臺上所扮演的角色
《欽定揀放佐領則例》研究
《滿文原檔》比較研究—以天聰六年愛新國大軍征略庫庫和屯及其周邊地區史實為中心
研究土司制度應重視對清代檔案的利用
從《清史稿·乾隆本紀》巡幸盤山的記載看其史料價值
再論“三韓山鬥碑”有關問題
清代多文種合璧文獻二三例


2015年6月30日 星期二

盤皇另闢天的毓老師






作者: 許仁圖
出版社:河洛圖書出版社
出版日期:2015/05

【目錄】

我們擁有毓老師的共同記憶/吳序
毓老師,讓大家都知道/自序
第一章 讀書百年.讀出活學問/講學六十年.講的皆實學
第二章 智慧無古今.古為今用/讀古書存智慧.不為古人化粧
第三章 思想是去思去想/萬物的價值就在乎於性
第四章 學宗素王.一棒接一棒/熊夫子說原儒.毓老師講熊學
第五章 獨門絕活.不傳之密/洗心退藏.一字一義
第六章 吾道一以貫之/貫上始是孔子之道
第七章 以夏學奧質尋拯世真文/豈止日月易新懸必也盤皇另闢天
第八章 進退以時.時至不失/不傳之學:聖時.權權


【作者簡介】
1949年生。台灣人。台灣大學哲學系畢業。於1974年成立河洛圖書出版社,任發行人。1980年後以「阿圖」為筆名,在中國時報、聯合報等報章發表『鐘聲21響』等書。1980年並成立河洛影業有限公司,任董事長,並親任導演、編劇、男主角等工作。1983年出任台灣時報記者、副刊主編、副總編輯、駐社主筆等職。1995年任國美有線電視台顧問。1998年當選民主進步黨高雄市黨部第七屆主委,踏入黨公職。曾任高雄市政府顧問、高雄市政府新聞處處長、高雄市政府民政局局長、民主進步黨中央黨部副秘書長、組織部主任、代理秘書長、發言人、主席南部辦公室主任、長工辦公室主任等職。阿圖作品集大武林 (全四冊)枕舟江湖 (全二冊)少俠路拔刀 (出版中)打狗狼煙 (出版中)廿四個晚上 (全一冊)鐘聲21響∕30年紀念新增版 (全一冊)三哥傳奇 (全一冊)論語一章 (全一冊)





2015年6月29日 星期一

八旗制度の研究





東洋史研究叢刊之七十九(新装版 17)
八旗制度の研究
谷井 陽子
A5上製・512頁・税込 7,560円
ISBN: 9784876985371
発行年月: 2015/02

内容
八旗は中国清代に満洲人が属した社会・軍事組織を指す。従来は八旗を各々独立した存在とみる分権制的理解が行われていたが、本書は経済、行政、軍政の面から検討し、八旗が限られた労力と物資を最大限に活用するために強力な中央管理のもとで運営された制度であることを明らかにすることで、通説を覆し、同時代の新しい歴史像を提供する。

目次

凡例

序 章 連旗制論批判
 序
 1 連旗制論的理解の論拠の検証
 2 連旗制論と矛盾する諸事象
 3 連旗制論を支えてきたもの
 小結

第1章 経済的背景
 序
 1 「天が諸々の国人を養うようにと任じた聡明なるハン」
 2 遼東征服後の苦闘と挫折
 3 入関前清朝の経済的限界
 小結

第2章 財政構造
 序
 1 「家boo」の経営
 2 「公siden」の財政
 3 「養うujimbi」ことの必要性
 4 「八家均分」の意味するもの
 小結

第3章 ニルの構成と運営
 序
 1 八旗と八家
 2 「家のニルbooi niru」の構成と運営
 3 「外ニルtulergi niru」の構成と運営
 小結

第4章 軍事的背景と戦略
 序
 1 ヌルハチの自立から遼東征服まで
 2 遼東進出から山海関攻撃の挫折まで
 3 華北侵入の成功から内モンゴル・朝鮮の服属まで
 4 入関までの対明戦
 小結

第5章 軍隊の編制と指揮・管理
 序
 1 兵制と兵種
 2 戦時編制と指揮・管理
 3 軍規と賞罰
 小結

第6章 政治構造とエートス
 序
 1 ヌルハチ即位以前の女真政権の問題点
 2 合議による集権体制の成立
 3 諸王の政治的基盤の不在
 4 満洲政権を支えたエートス
 小結

第7章 新しい秩序の創出
 序
 1 「出自を見るな」「系統を見るな」
 2 「功」を上げる義務
 3 「法度」による支配
 結語

附論1 入関後における八旗制度の変化
 序
 1 議政のゆくえ
 2 八旗の組織と役割の変化
 3 新しい経済的基盤の設定
 結語
附論2 清朝入関以前のハン権力と官位(hergen)制
 序
 1 官位の体系とその特質
 2 分配の基準
 3 政権の責務
 結語
附論3 清朝入関以前における漢人官僚の対政治的影響
 序
 1 ヌルハチ期における漢官の役割
 2 ホンタイジの漢官に対する方針
 3 入関以前の政治に対する漢官の影響
 結語

参考文献
あとがき
中文提要
索引(人名、地名・国gurun名・事項)

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プロフィール

谷井 陽子(たにい ようこ)
天理大学文学部教授
1962年生まれ
1985年 京都大学文学部卒業
1991年 京都大学大学院博士後期課程退学。京都大学研修員。京都大学人文科学研究所助手。
1999年 天理大学文学部講師、助(准)教授を経て、2012年より現職。

主要論文
「明律運用の統一過程」(『東洋史研究』第58巻第2号、1999年)、「明初の対モンゴル軍事政策とその帰結」(『史林』第92巻第3号、2009年)など。

2015年6月28日 星期日

莊吉發教授近著二種




頁數:490頁
出版日:2015/05/01
ISBN13:9789863142560
定 價:NT$580元




頁數:466頁
出版日:2015/06/01
ISBN13:9789863142638
定 價:NT$660元


﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍﹍
莊吉發,1936年生,臺灣苗栗人。原籍廣東陸豐。1956年臺北師範,1963年臺灣師範大學歷史地理學系,1969年臺灣大學歷史研究所畢業,曾任士東國小、士林初中教員、臺北故宮博物院研究員,臺灣師範大學歷史研究所、政治大學民族學系、淡江大學歷史學系、東吳大學歷史研究所兼任教授。現任臺灣大學、政治大學兼任教授。


2015年6月25日 星期四

人參帝國-清代人參的生產.消費與醫療





作者:蔣竹山
頁數:285頁
出版社: 浙江大學出版社
出版日:2015/03/01
ISBN13:9787308142922
人民幣定價:48元/NT$288元

本書是對清代人參史展開的全面性研究。人參歷史的研究不僅是制度史、政治史及經濟史的課題,更是醫療史及物質文化史的重要課題。本書從物質文化史的角度,大量引用清宮檔案與東亞各國的人參醫書史料,分別從生產、消費與醫療方面分析了人參對整個清代政府政策的作用,表明了人參對清代社會的重要影響,展現了一幅清代人參帝國的景象。

植物、醫學知識與消費文化:人參史研究的新方向/1
第一節 人參政治的研究回顧/3
第二節 從制度的社會史到消費文化史/16

第二章 分類:人參文本與書寫/25
第一節 清以前人參的物種生命史/26
第二節 清代人參的類別/33

第三章 邊境:明末清初東亞邊界的人參問題/51
第一節 邊境社會的人參衝突/53
第二節 皇室的專職采參組織:打牲烏拉/58
第三節 八旗與人參:旗辦采參制/66

第四章 人參政治:專賣與官參局/81
第一節 雍正時的采參制/83
第二節 延續還是斷裂:乾隆初期的招商刨採制(1736—1743)/91
第三節 國家直接管理:官參局的設立/99
第四節 參務管理的困境:乾隆五十九年的吉林參務案/104

第五章 真偽:秧參與參務案/114
第一節 參禁制度下的變奏:秧參的崛起/116
第二節 國家權力與秧參:參務案的爆發/121
第三節 中央與地方的角力:參務章程的論爭/139
第四節 人參專采的取消:從道光朝到光緒朝的轉變/143

第六章 醫藥:江南的溫補文化/148
第一節 “不怕病死,只怕虛死”:清代江南的好服補藥風氣/149
第二節 明清的人參藥用與醫者論參/158

第七章 消費:人參的價格、貿易與流通/170
第一節 “中人十家產,不滿一杯味”:人參價格的變化/172
第二節 參斤變價:清代東北官參下江南/180
第三節 商參的流通/204
第四節 新知識、新消費:人參消費的指南書籍/213
第五節 禮物文化:人參的賞賜與贈禮/234

第八章 結論: 從人參史反思全球視野下的醫療史研究/238
第一節 全球視野下的人參帝國/238
第二節 全球視野下的醫療史/242
第三節 藥物流通的全球史/246
第四節 疾病、環境與醫療的全球史/248

參考文獻/261
索  引/281


作者簡介
蔣竹山, 臺灣清華大學歷史學博士。現任臺灣東華大學歷史學系副教授,兼任人文社會學院大眾史學研究中心主任。主持熱門網站“新文化史工作坊”、“新文化史部落格”及“大眾史學部落格”。著有《當代史學研究的趨勢、方法與實踐:從新文化史到全球史》(五南,2012)、《島嶼浮世繪:日治臺灣的大眾生活》(蔚藍文化,2014)等。

2015年6月24日 星期三

汪榮祖再答姚大力:學術批評可以等同於“打棒子”嗎?




我回復姚大力批評我所編的《清帝國性質的再商榷:回應新清史》,很快有了回應。姚文的題目是《略蕪取精,可為我用——兼答汪榮祖》(載2015年5月31日《上海書評》)。然而內容並不是談如何略蕪取精,如何為我所用,而是針對我對他的質疑,並時而爆出情緒性的激憤之詞。在網上還有他的學生為之叫好,說他的姚老師“抽”了我!姚大力更將我的文字隨心製造矛盾,誇大其詞,甚至曲解之餘,代我認錯,取得爭勝的滿足感。是誰在“深文周納、巧言羅織”啊!眾目可見,明明全文在回答我,偏偏說“兼答”,比如明明是全職,卻說是兼差。就此而言,無論他的正題或副題,都有點文不對題。

我與姚大力素昧平生,全無恩怨可言,很自然是對事不對人,所以對事我針鋒相對,不稍假借,然對其人仍尊之為“姚先生”,並“敬答”對我所編之書的批評,這就是所謂對事不對人。但是他毫不客氣,不僅直呼其名,而且以“兼答”以示輕蔑。類此針對個人的態度,我並不在乎,也不怪他,誠如他所說“入墨者黑”,我也只好隨俗了。


質疑新清史最主要的問題是清帝國的性質
姚大力提出的第一個問題,根本是假議題,沒有人“全面否定新清史的研究成果”,說“全面”,豈非誇大其詞?我所編之書就是如他所說,很具體地指出新清史立論中“那些關鍵性的錯誤究竟是如何”,何來全面否定?老姚優為者,不過是把別人的說法推向極端,然後加以抨擊。一言以蔽之,我們質疑新清史最主要的是大問題,是有關清帝國性質的大問題。既然說白璧之瑕都不必曲諱才是正道,何況不是白璧?白璧之瑕都不可忽略,“蕪雜”能忽略嗎?我的理解是“蕪雜”必須充分揭露後,證明是“蕪雜”,才能略之。否則容忍“蕪雜”,“菁英”安彰?更未免鄉願。

我說姚大力“未讀懂”新清史的主要論點,是很具體的,但他誇大成“不識字”,有何意義呢?就像他誇張地說,“全面否定”、“一幅整體坍塌的可笑圖景”、“一團向壁虛構的夢囈”、“一堆不具有任何積極的正面意義的垃圾”等等都是他所編荒誕的形容詞,除了他之外,誰說過這些話呢?我已具體指出,新清史根本不接受“漢化”說,認為是一錯誤的概念,我在“敬答”一文中,不惜引用他們的原文來作說明,但姚大力仍然視若無睹。很顯然,“漢化”與新清史所主張的“族群主權”有矛盾,所以他們並不如老姚所理解的,“漢化”是不值得再提的“老故事”。我認為歐立德將“漢化”理解為“全盤漢化”,其用意由於“漢化”難以否定,故將之極端化來否定漢化,因“全盤漢化”就像“全盤西化”事實上是不可能的事。我甚至認為即使是漢人,也難說“全盤漢化”。所以如果把“漢化”理解為“全盤漢化”,則無“漢化”矣!但姚大力卻將之誤讀為歐立德只不同意“全盤漢化”,還要自問他為何不可用“全盤漢化”?他當然可用,但他是否也是要將漢化解作“全盤漢化”,以便否認漢化?我在“敬答”一文中,勸姚不要再硬拗“全盤漢化”,可惜他不但置若罔聞,反而一口咬定我是“全盤漢化論”者,有這樣蠻幹的嗎?

姚大力說我單挑“漢化”,就是他不讀何炳棣原文的亂點鴛鴦譜,何文不僅指責而且抗議羅友枝單挑漢化。羅既然單挑漢化,何老先生當然以“捍衛漢化”回應,如果羅不抨擊漢化,何又何須“捍衛漢化”?無“的”哪有“矢”啊!可是姚大力仍然要批評何文只談第三條的漢化。姚大力似乎還是搞不清楚,新清史不是要對“漢化”作正面的反思,而是根本質疑“漢化”此一概念與用法,甚至指責“漢化”乃現代中國民族沙文主義的產品,但姚大力仍然認為,新清史的“漢化觀”沒有什麼不對。關於新清史的“漢化觀”,我在前文已經詳述,就請讀者自己去判斷了。

大清帝國既然擁有內亞,具有內亞屬性,自不待言,誰會去否定內亞屬性?但姚大力卻“又驚又喜”地發現我承認了新清史的“內亞視角”。請問我個人以及所編的整本書,何來否認“內亞視角”的言詞?關鍵是否如新清史所說,清帝國擁有遼闊的內亞之後,就成為內亞帝國而非中華帝國了?甚至中國竟是內亞帝國的一部分?姚大力對此最關鍵的問題,卻推說由於篇幅所限,不予表態!(事實上,他浪費了不少筆墨大談一些毫不相干的事。)他難道看不見,新清史誇大內亞屬性之後,認為清帝國融合兩種傳統之後,是一內亞帝國,而非中華帝國了,也就不是“中國的朝代”。這是新清史的論斷啊!姚大力卻對我大興問罪之師。他引用我的結論,不提我的論證,大罵“錯亂”。正因為此乃有關清帝國性質的大問題,所以我們提出“商榷”,以回應新清史,主要反駁清帝國是內亞帝國而非中華帝國之說,未料卻觸老姚之怒。

歐立德厚達五百八十頁的大書《滿洲風》(The Manchu Way,編者注:又譯為“滿洲之道”)以八旗與族群認同為主題,包含甚廣,絕非如姚文所說“繼續維持滿漢界別”。他是要以“滿洲風”來取代“中華風”(The Sinic Pax)的。然而“滿洲風”能取代“中華風”嗎?顯然不能!就拿八旗來說,乃滿洲最根本的制度,請問滿族入關之後,清帝推行的是傳統中華一人帝制,還是八王共同議政制?答案不是很明顯嗎?姚大力認為內亞的政治文化資源發揮了“至關重要的影響”,卻不說哪些政治文化資源,也不說“至關重要”到何地步?是否如新清史所說,重要到已不能再稱作中華帝國了?姚大力說,有理由把清與漢、唐、宋、明的“統治體制區別開來”。漢、唐、宋、明都是中華帝國,區別開來清帝國即非中華帝國了?那豈不就是清不是繼明,而是繼元。言下之意,豈非與中華民國只能繼明的說法相當一致。這種主張姚大力能接受嗎?沒想到他居然說,在汪榮祖的心目裏,“滿洲傳統根本就不屬於中華傳統”!他老兄代言錯了,須知這話是在新清史諸君的心目裏,不是在我的心目裏。他對“代言”一詞,似甚敏感;其實我毫無貶損之意。你覺得產品好,為之代言,應該是光榮的事啊!但“代言”絕不可不誠實。

無可否認的事實是,滿族入主中原是要做中國的皇帝,國號曰清,建都北京,政治與文化的中心毫無疑問在中原。清朝治理內亞的方式與中原不一樣,因地設施,無足為奇,因仍在中原的中央政府掌控之下,更何況地處內亞的新疆後來也成為中國的行省。何炳棣說清帝國的政治文化中心在中原而非內亞,並沒有認為漢化是清帝國成功的唯一原因,他一共舉了五個原因,但他認為清帝國統治政策的核心仍然依賴傳統中國的政策。這話並沒有錯,但姚大力偏偏要將何先生定型為一“尺有所短”的“極端漢化主義者”!中原漢人與漢文化對大清帝國的貢獻,何先生已經講了許多,姚大力不妨多講一點內亞的政經文化資源對清帝國的貢獻,如果能證明內亞的資源大於中原,足可以“內亞帝國”代替“中華帝國”,則新清史諸君必樂見姚大力能青出於藍也。

眾所周知,清帝國不是中國歷史上唯一的多民族政權,中華帝國從秦到清,一直是多民族互動的天下。所以甘德星證明康熙自稱中國皇帝,至關重要,然而姚大力卻說不重要。新清史認為滿洲人“打扮成漢人的統治者”;換言之,實際上並不是,只是“打扮成”。西方學者往往把非漢人統治的政權視為“征服王朝”(conquest dynasty),所以那王朝是征服者的王朝,而不是被征服者的王朝,用現代的話說,就是“外來政權”,也就不是“中國的朝代”。這不是“奇談怪論”的“大翻案”嗎?我並沒有說錯啊!我曾一再“敬告”姚大力,洋人只認漢人是中國人,中國學問叫“漢學”,滿人、蒙人、藏人都不是Chinese,但老姚還是聽不懂。所以我說美國人知道自己是多民族國家,卻不知中國也是一多民族國家,然而姚大力居然莫名其妙地說我也不知道中國是一多民族國家,能夠這樣子亂說話嗎?滿洲族群像漢人一樣具有血統觀念,然經過長期的歷史經驗,最終成為“歷史民族”,也就是多元的中華民族,但滿人或漢人都不宜被稱作“歷史民族”。滿洲認同沒有消失又如何?我曾一再提到,族群認同與國家認同是兩碼事。中國人的省籍認同也從來沒有消失過,不是嗎?

姚大力說:“汪榮祖主張若非漢化,即成外國的說法。”請問我在何處說過這句話?此猶如洋人所說“把你的話塞進我的嘴裏”(put your words into my mouth)。將漢等同中國是西方人的主張與說法,所以他們雖然把中國歷史上非漢人政權寫入中國史,但視為“外來政權”或“征服王朝”。事實上,這些王朝無論五胡、遼金元清絕非外國,即使是少數民族政權,仍然是中國。姚大力提到呂思勉,原來是要借呂氏之口,指元朝不是中國。呂先生那一輩學者于辛亥革命後仍具濃厚的夷夏之辨的思想,忘了中國是多民族的國家,更不應套用外國名詞,把元代視為“殖民地時代”,因大元就是中國的國號,蒙古人入主中原也是要做中國的皇帝,忽必烈又稱元世祖,也是中國的廟號。姚大力是元史專家,應該知道得更多。他也應該知道,即使呂先生雖不恰當地把元朝視為“殖民地”,但仍是中國史的一部分,不是嗎?但他卻以我認為寫入中國史,就是把元朝視為中國,有違呂先生的本意。臺灣從1895年到1945年是真正的日本殖民地,蒙古人到中國成立元朝,日本人並未到臺灣成立和朝,兩相比較就知道,說元史是中國被殖民的歷史是不符事實的。然而臺灣五十年被殖民的歷史仍然要寫入臺灣史,不是嗎?美國殖民時代也是美國史的一部分啊!老姚未免少見多怪矣!他更借此大玩文字遊戲,莫名其妙說我“清朝若非全盤繼承漢家傳統,即失去代表中國之資格”。我在哪里說過這句話?我一再說過,所謂“全盤漢化”根本是不可能的假議題,我一再說過大清足有資格代表中國。認為清朝不代表中國的是新清史諸君啊!他居然還要反問我,“清朝到底還算中國嗎”? 此一大哉問,你應該去問新清史諸君啊!需要“錯亂”地問我嗎?

清、俄兩大帝國的性質根本有異
我在“敬答”一文中指出,清帝國不能與俄羅斯帝國相提並論,因看起來都是“早期現代帝國”,但貌同心異。姚大力不能理會,寫了一大段來反駁。他接受俄國晚至十九世紀末還不是資本主義國家的說法,但同時又確定俄國是已奉行帝國主義的帝國。按十九世紀末的“新帝國主義”的特徵是向海外擴張奪取資源、市場與勞力。請問若非資本主義發展到相當階段,會有“新帝國主義”的出現嗎?無因能有果嗎?列寧所說“帝國主義是資本主義最高階段”,有其洞見,西方學者也未嘗因人廢言。即使不是“最高階段”,也必須要有相當階段才可能發生。姚大力問我“是不是社會發展五階段的追隨者”?這話在我聽來相當意外,因我一直認為任何學說,只要具有批評的眼光,都可為我所用。學術不是幫派,談不上“追隨”。若具有批評的眼光,就不會將一偏之說視為“主流”或“定論”。如姚大力跟著有些西方人,將帝俄視為“專制的和集體的非歐洲帝國”,真不必人云亦云,何不獨立思考一下:帝俄不是歐洲國家,難道是亞洲國家?即使可稱“歐亞帝國”,重心還在歐洲吧!

說到“資本主義”(capitalism),最基本的概念是一以資金牟利的經濟制度,無論製造業與服務業都是為了市場供需,最純粹的資本主義是沒有政府干預的私有企業與市場經濟,但純粹的並不多,即使當代的資本主義國家,對“生產模式”也多少有不同程度的“公有”與“控制”。有此基本概念,就不必從一些譯書中找些說法,在抽象的名詞裏打滾,作言不及義的解釋。姚大力要“把克利歐還給克利歐”,那就請克利歐出來說明具體的歷史事實,看看十八世紀的帝俄是不是已進入資本主義。

俄國的彼得大帝與清帝國康熙大帝同時,已開始全面歐化,將俄國帶入西歐世界。他在俄國薄弱的基礎上建立了大規模的重工業,大大發展了紡織輕工業,輸入各種新型的製造業,以及成長四倍的國際海上貿易。在1695年俄國只有十七家鐵工廠,到1725年增加到二十五家。彼得大帝發展工商政策的目的,固然是要富國強兵,由政府主導,但至1725年烏拉地區(Urals)百分之二十的鐵產已由私營,而早在1716年,高品質的俄國鐵器已出現在倫敦市場。當彼得大帝駕崩時,俄國所出產的生鐵已經略微超過英國,二十五年之後遠遠超過英國。到俄國葉卡捷琳娜二世時,俄國已取代瑞典成為歐洲最大的鐵生產國。從1710到1725年間,不少國營工廠轉為私營,彼得大帝也以優惠條件鼓勵創辦私人企業與公司。其實他早在1699年就已大力推行仿效西方開設各種不同項目的工商業公司,發展貿易與各類製造業,他也從大商人與製造業者那裏得到相當多的資金來發展工業與科技。有此工商政策,俄國的國際貿易額在彼得大帝任內已成長了四倍,且在整個十八世紀持續不衰。所以俄國東進到內亞與東亞以及西伯利亞,主要也是為了追求資源與商利。請問十八世紀的俄國有輕重工業、有各種製造業、有私有資本、有國際貿易與市場經濟,以及有追尋龐大利益的工商政策,如何能否認已經進入資本主義呢?在歷史女神面前還需要引經據典來強辯嗎?姚大力相信俄國晚到十九世紀末尚非資本主義國家,不是太“冒失”了嗎?他想送給我“冒失”的帽子,還是還給他自己吧。

反觀十八世紀的大清帝國也在盛世,康熙大帝雖從耶穌會士(Jesuits)得到西方的訊息,對西學也發生興趣,但幾乎完全沒有反映到國家政策上來。康熙經營的仍然是傳統中國的朝貢體制,到乾隆晚年英國派使臣馬戛爾尼(George McCartney)來華要求通商,仍遭到拒絕,就是不願意放棄原有的體制,被西方人稱為“遲滯的帝國”(Immobile Empire),直到十九世紀西方入侵,李鴻章才驚覺“三千年未有之變局”。很明顯的,清、俄雖同為“早期現代帝國”,但一進取,另一守成,兩大帝國的性質根本有異。我說“貌同心異”,姚大力不能會意,只好再列舉一些眾所周知的史實,供他參考。

侵略性與防禦性的擴張是兩碼事
姚大力也不能分辨侵略性與防禦性的擴張,其實略觀明清史便知,北方蒙古的威脅是一貫的。明朝無力進取,只能築邊牆,做最保守的全線防禦;清朝具有的長城以北以及內亞的優勢,才能做進取的防禦,建立滿蒙“旗盟制度”,目的是和平相處,分而治之,以策安全,與西方的殖民制度,乃兩碼事。康熙征討準噶爾蒙古,因噶爾丹破壞此一安全體系,入侵內蒙,逼近北京。我在“敬答”文中有詳細的敍述,但姚大力仍然不能判斷康熙征討噶爾丹的動機。就拿姚大力提出來的“義利之辨”來說,西方新帝國主義、殖民主義幾乎全為了“利”,然而清帝西征有何利可圖?多的是勞民傷財,乾隆十大武功反而成為由盛而衰的轉捩點。大清既然是為了北疆的安寧與安全,可稱為“義”。無論如何,清朝在內亞的建制不能等同西方的殖民制度,吳啟訥在我所編書中已經詳述,不必再贅,唯不知姚大力能否接受耳。至於擴張動機的善惡固然是主觀的價值判斷,未嘗沒有公正客觀的可能性,至少善惡有程度之別,我想姚大力也不至於認為大清的擴張與新帝國主義的擴張是一丘之貉。善惡也未嘗沒有一致性的判斷,像二戰前德國與日本的擴張,全世界幾乎沒有人會說是“善”的。我說美國人都知道美國的西進運動,濮培德當然知道,但他卻以雙重標準來指責清朝的西進。姚大力未看懂,卻指我說濮培德“不是美國人”!

姚大力顯然對後現代理論很感興趣,所以引福柯講“話語”(discourse),但貿然引用,言不及義,甚至不知所云,更不相干。我既不曾說新清史是“話語構建”,也不認為是言之成理的“理論”,主要是明明白白的“翻案”。姚大力明確想要指出的,其實是所謂“實證史學偏見”,他要重“理論”輕“考據”。他說“崇尚考據本來是對的,但光憑考據無法完成史實重建的任務”。這不是廢話一句嗎?考據原是做學問的方法或工具之一,光憑考據當然無法重建史實;然而如無嚴謹的考證,重建的史實能不“地動山搖”嗎?

他又貿然引用柯林武德(R. G. Collingwood)的一句話,不知上下文的讀者有點不知所云、不解何意,更無法掌握這位著名英國歷史哲學家的要旨。柯氏反對的“實證史學”是指將史學科學化或遵循自然法則的史學,如佈雷(John Bury)與韓貝爾(C. G. Hempel)等人的主張,因他認為歷史與科學是兩種不同的思維模式。他認為歷史不可能重建,只能“重演史事于史家之胸”(re-enactment of past experiences),但運心重演往事,並非全憑主觀空想,仍然需要文獻佐證。他在自傳裏說得尤其清楚,解決歷史問題必須要拋棄猜測,而須充分滿足證據所需。在此不宜多談柯林武德以免節外生枝,總之他對蘭克(Leopold von Ranke)的實證史學仍有敬意,考據也絕非“歷史編撰學的消極遺產”。據我所知,韓儒林就自西歐漢學中師承蘭克的治學方法,專攻蒙元史,擅長以多種語文史料校訂互勘,對名物制度的考證,成就最大,如一一考出成吉思汗十三翼每一翼的人名與部落名。考據不能“完成史實重建的任務”嗎?

在西方,“學門”與“紀律”(discipline)是同一個字,學術紀律要求極嚴。進入學門的研究生需先學習該學門的基本學術規範,講究寫書評、寫論文的方法與格式,連註腳的格式都必須按照規範,如有不按規範的書評或論文,是不會被接受的。所以我很驚訝有人會說,書評可以隨便寫。在西方教你如何寫論文、寫書評的小冊子可多著呢。姚大力要大家虛心向外國學習,何莫從入門的學術規範學起?我不相信中國大陸的高校是以“世間人法無定法,而後知非法法也”來教導學生的。

學術批評不是“打棒子”
我認為與學術相關的個人見聞應是有參考價值的難得訊息,但姚大力認為這些“瑣聞逸事”是八卦。若說“認識她”或“一夕談”是八卦,那麼“先師”、 “老友”云云是否也是八卦?我猶記與他先師一夕之談,是充滿敬意的。姚大力引他先師所說“歷史研究中自築營塹、關門稱大王的封閉意識,以為既然研究的是本國的歷史文化,即可以旁若無人”,明顯是反映他先師的時代。在那封閉的時代,當然是十分正確而令人起敬的。但經過三十餘年改革開放之後,大陸與港臺一樣膜拜西學之風大盛,是否有“遠來的和尚會念經,連研究自己的歷史與文化也不如人”的現象?儒林先生若見此現象,還會說“關門稱大王”嗎?作為韓教授的學生不自覺時間錯亂,居然說我“先捧後抑”,不僅錯解人意,而且還要杠上開花,加上“輕誣前賢”的罪名,還要牽扯到陳寅恪。在他心目中,“尺有所短”與“輕誣前賢”是同義詞嗎?

最不可思議的是,姚大力說“在他自己主編的書裏也沒有獲得多少人支持”;如果是這樣,他又何必批評我主編的書呢?批評我就好了。遺憾的是,他老兄既不知有水準的研討會本來就不是“一言堂”,更昧於我們來回討論、修改論文,編輯論文集的過程。我們既有不同意見,也有基本共識,像你姚大力當然不會跟“我們”一起開會、寫文章吧!請問老姚,如果主編不能對他所編之書負責,又有誰來負責?如有人對一本論文集提出不當的批評,如果主編不回應,算負責任嗎?他不瞭解這些情況也就罷了,居然在情急之下,口不擇言。用他的話說,“是什麼意思?”他出此下策,恐將貽笑儒林。我編的這本書出版後,歐洲著名出版社Brill主動來函要求授權出英文版。西方有人對這本書如此感興趣,就是因為有不同的見解和批評的力度,與姚大力的心態正好南轅北轍。姚文總覺得我們不應該去批評新清史,而應該虛心向他們學習,把批評他們當作“棒子打到新清史頭上去”,學術批評可以等同“打棒子”嗎?

政治正不正確也是姚大力提出的議題,我只是回復他,他便死纏誰把“學術問題當作政治問題對待”。新清史重新詮釋清帝國的性質,強調“族群主權”以及大清是內亞帝國而非中國的朝代,不應該有所警惕嗎?當下美國的“亞洲再平衡戰略”,眾所周知,目的就是為了“圍堵”中國,不希望中國太強太大, 難道姚大力毫無感覺嗎?姚大力真的相信西方政客的不良政治意圖與新清史理論完全無關嗎?他人在境內,應該對學術被政治利用更加敏感。然而他還要反問我:“那些當年和當下的敵情之間又有什麼關係呢?”姚文理直氣壯地說:“我說針對新清史的批評往往含有指責其‘政治不正確’的強烈意味,這麼說到底錯了沒有呢?”錯了!我們不會“指責”他們政治不正確,因他們根本不在乎政治正確不正確,我們只批評他們的立論,對他們的論述被政客利用感到遺憾而已。強烈意味的政治語言倒出現在姚文的最後一大段,諸如“把這樣的爭論看作學術領域內的一場政治鬥爭、一場嚴重的階級鬥爭,甚至發展為一種空言詆斥、辭氣叫囂的惡劣文風,就可能帶來非常不好的後果,不但無益于社會的文化發展,而且對政治發展也很可能是十分有害的”。這些無限上綱的政治語言令我感到十分陌生與錯愕,怎麼會出現這種話語呢?誰會把學術當政治鬥爭呢?誰在“叫囂”?與討論新清史有什麼關係呢?姚大力要我們去批評政客,不要“棒打”新清史,我想他應該記得一句老話:“始作俑者其無後乎?”不能夠在學術上也作些批評嗎?“棒打”云乎哉!?



2015年6月21日 星期日

伊蘭梭林端機 、 孫扎梭林端機






Stephen Potter Udry 華盛頓大學的博士論文Muttering Mystics: A Preliminary Examination of Manchu Shamanism in the Qing Dynasty(2000),對滿洲薩蠻教之研究,頗有見地,足供學人參考。Udry 現職Carthage College, Kenosha, WI副教授,曾從羅杰瑞Jerry Norman學滿文,其博士論文指導教授為R. Kent Guy。

在其博論中(p.148),Udry引姚元之, 竹葉亭雜記,卷三,頁63,以説明滿洲之薩滿祧神。該文云:「其三位神座前,文之首句曰伊蘭梭林端機,譯言三位聽著也。五位前,文之首句曰孫扎梭林端機,譯言五位聽著也。」

Udry將「伊蘭梭林端機」譯作three-spirit's placing,「孫扎梭林端機」譯作five-spirit's placing,以為「梭林」即solinjimbi。其實「梭林」即soorin。所謂「伊蘭梭林端機」即ilan soorin donji 漢文可譯為三位神座聽著,而所謂「孫扎梭林端機」即sunja soorin donji,漢文可譯為五位神座聽著。Udry的three-spirit's placing和five-spirit's placing,明顯為誤譯。




(中正大學滿洲研究班甘德星)



2015年6月17日 星期三

劉小萌: 愛新覺羅家族史





出版社: 中國社會科學出版社
ISBN:9787516155226
出版時間:2015-03-01
頁數:419
價格:¥66.90

近二十年來,有關愛新覺羅家族史的各種撰著,包括回憶自傳,以及影視作品不斷問世,推陳出新,但因題材所限,它們所能提供的多是有關這一家族的某個歷史片斷或剖面,其中以訛傳訛、恣意曲解者即所謂“戲說”者亦在所難免。《愛新覺羅家族史》之目的,則是發揚史學著作之特長,將愛新覺羅家族飽經滄桑的一部興衰歷史,放在特定的社會環境下加以考察,進而為它的發展勾勒出一個比較完整清晰的輪廓,並從中得出一些基本的認識。


內容簡介
愛新覺羅家族歷史悠久,被清朝尊為肇祖原皇帝的孟特穆(猛哥帖木兒)自明朝初葉已見諸史籍。

1616年(明萬曆四十四年),清太祖努爾哈赤創立清朝的前身——後金國,標誌著愛新覺羅家族登上歷史的舞臺。從1644年(清順治元年)清朝入關,君臨天下,迄至末代皇帝溥儀于1911年(宣統三年)退位,該家族統治中國長達268年之久。劉小萌編著的這本《愛新覺羅家族史》將愛新覺羅家族飽經滄桑的一部興衰史,放在特定社會環境下加以考察,並為其發展勾勒出一個大體清晰的輪廓。全書九卷,時間起自元末明初,迄於20世紀末,重點在有清一代。按照歷史的發展,分階段闡述該家族的變遷。其中,重要人物的活動,重要事件的影響,家族制度的興衰,族內關係的演變,是貫穿始終又相互交織的幾條線索。


目錄
概說
第一章 歷史之謎
一 發祥地之謎
二 姓氏之謎

第二章 創業開國
一 “山河啟帝基”
二 效力元勳
三 金國顯貴

第三章 恢宏帝業
一 廢除“共治國政”
二 宗室貴族的形成
三 佐命諸王
四 諸王爭權

第四章 “天下第一家”
一 底定江山
二 優遇宗親
三 再起內爭

第五章 盛世天潢
一 文治武功
二 秘密立儲
三 削弱宗藩
四 日尚儒雅
五 濡染漢習

第六章 皇族制度
一 宗室等級
二 教育制度
三 土地制度
四 皇族事務
五 王府管理

第七章 告別輝煌
一 “玩家”種種
二 貴族的腐朽
三 諸制廢弛
四 生計問題

第八章 “盛筵必散”
一 清季宗藩
二 時窮節乃見
三 王朝末日

第九章 坎坷之途
一 自食其力的轉變
二 小朝廷的覆亡
三 舊貴族的沒落
四 復辟夢的破滅
五 爭取平等的呼聲
六 尾聲

附錄一 表
1.清朝紀年表
2.宗室貴族封爵表
3.宗室王公俸銀俸米額數表
4.宗室貴族妻女封爵表
5.宗室王公封爵之女與女婿之俸銀俸米表
6.皇子分封撥給佐領莊園戶丁表(康熙朝)
7.旗族關係表
8.八旗宗室、覺羅佐領統計表
9.八旗宗室族長學長統計表
10.八旗近支宗室學長統計表
11.左右翼近支族長遠支總族長銜名表
12.京城王公府第表
附錄二 大事記
附錄三 主要參考書目
後記


作者簡介
劉小萌,1952年生於北京。史學博士。中國社會科學院近代史所研究員、博士生導師。北京大學中國社會與發展研究中心兼職研究員,北京市社會科學院顧問。著有《清代北京旗人社會 》、《滿族的部落與國家》(第二、三版《滿族從部落到國家的發展》)、《愛新覺羅家族全史》、《滿族的社會與生活》(論文集)、《清通鑒·前編》、《胥吏》、《正說清朝十二王》、《八旗子弟》(插圖本《清代八旗子弟》);《中國知青史——大潮》、《中國知青口述史》。合著《知青事典》、《薩滿教與東北民族》、《中國民族史概要》、《中國通史》第11冊等。主編《世紀存疑——歷史考古卷》。


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精彩書摘

  滿洲人早期信仰薩滿教,是一種原始多神教信仰。他們認為萬物有靈,因此不但對天、地頂禮膜拜,而且把與自己生活有密切關係的一些動物、植物也奉若神明,同時還供奉祖先為神。“薩滿”則是有關宗教活動的主持人,是溝通人與神的信使,其實也就是民間習稱的“巫”,或叫“跳大神”的。
  具體就愛新覺羅家族而言,有關神鵲、七星的崇拜,是其信仰中最古老的成分。愛新覺羅氏的始祖傳說,說的是天女佛古倫吞食神鵲銜來的朱果,而誕育始祖布庫裏雍順的故事。清代官書《滿洲實錄》卷一又記,布庫裏雍順身後數世,有名樊察者,幸得神鵲搭救,始得逃生。於是從此以後,“滿洲後世子孫,俱以鵲為神(滿文體寫為‘祖’),故不加害”云云。而昔年廣泛傳佈於滿族民間的“烏鴉救駕”(駕,系指清太祖努爾哈赤)一類膾炙人口的傳說,當是樊察傳說的翻版。只不過,由烏鴉取代喜鵲,充當救命恩主的角色。愛新覺羅先世對神鵲的情感自然非同尋常,突出表現在祭神竿儀式中。祭神祭天均有享鵲的肉,“故祭神時必飼之,每一置食,烏及鵲必即來共食,鷹鸛從未敢下,是一奇也。過去的瀋陽八景中,就有“宮殿群鴉”一景,直到清季,每到二八月,要在盛京宮殿西偏的空地上撒糧以飼鴉。烏鴉群集,年久成習,每晚集聚,竟成一景。
  祭星也是信仰的重要內容。這裏所說的星,不是滿天數不清的繁星,而是專指北斗七星,滿語稱之為“那丹(七)烏斯哈(星)”。祭星,多於月落以後夕祭時舉行,即所謂“背燈祭”。其時將燈燭熄滅,萬籟俱寂,繁星當空,頗有一種神秘色彩。祭星是滿洲人薩滿教信仰中古老觀念之一,早在15世紀,朝鮮人就記載過建州女真的祭星習俗。當時尚無經常、固定的祭星儀式,只在消災祛病時採用。到清太宗皇太極時,有關祭星的記載,仍主要是與占卜、除祟等巫術活動聯繫在一起。崇德七年(1642),多羅安平貝勒杜度病篤時,其福晉因病由氣郁,招巫人(薩滿)荊古達至家祈禱。荊古達“剪紙作九人,同太監捧至北斗下,半焚半埋之”。剪紙人是薩滿醫病時所行巫術,參照《清文鑒》卷一三的釋義,可知祭星禳災的過程大致是:先由薩滿剪成紙人若干張掛起來,然後對七星祈禱,旨在嫁禍於紙人。剪紙人可能是明末才由遼東傳人的漢地巫術,而對七星的祭祀卻古已有之。七星在夜幕下永不隕落的自然景觀,在原始初民心目中產生了強烈印象。愛新覺羅氏薩滿教中的祭星,後來發展為一套完整固定的程式。古樸的七星神也向人格化轉化。清人關後宮廷祭祀諸神中,有所謂“那丹岱琿”,或稱“那丹岱瑚裏”,通譯作“七仙女”,也就是七星神的變體。
  清太祖努爾哈赤時代,立神竿(源於對神樹的崇拜)祭天,舉凡用兵及國中大事必祭,是信仰薩滿教的一種表現。平日在家供“祖宗(神)板”,院中豎“索羅竿”(神竿),祭祀時請薩滿跳神。不過,由於受到漢文化和蒙古文化的薰陶,信仰體系也相當駁雜。天命元年(1616),努爾哈赤稱汗立國初,就在赫圖阿拉城東山頂上建造了佛寺、玉皇廟和十王殿等,號稱七大廟。愛新覺羅氏在祭祀天、地、山、禽、獸的同時,還崇拜關帝、觀音、佛祖。據說,努爾哈赤平時家居常常“手持念珠而數”,言語間常稱“我佛”如何如何。又說明他們對蒙、漢等民族廣為篤信的佛教、道教不僅不陌生,反而被逐步涵濡。
  薩滿教原始多神教的性質,決定了它無力排拒外來一神教的衝擊。特別是當努爾哈赤揮師西進,先後攻佔了明朝在遼東的重鎮瀋陽和遼陽以後,固有的與漁獵經濟及氏族社會發展階段相適應的薩滿教信仰,益發難以滿足急劇變革的社會需要了。何況它根本征服不了有著悠久文化的漢民族以及早已皈依喇嘛教(黃教)的蒙古族。